僕らの生きている片隅の世界
コミケ前の庶務をこなしながら、ようやく「この世界の片隅で」を見てきました。
いやー、よかった。
面白かった、じゃなくて、よかった。
いいアニメ映画を見ることができました。
そんないい映画の感想。
えぐい映画です。
さっき、いい映画だって言っておいて何言ってんだおめえ状態ですが、
いや、とにかくえぐいんですよ。
この映画、盛り上がり方自体は大したことないんですよ。物凄くクライマックスになる訳でもない、割と淡々と(むろん、太平洋戦争下なので終戦のタイミングとかの盛り上がりは多少あるのですが)進んで行くのが印象的でした。
しかし、見終わった後の余韻がやばい。
普通の映画は、最後の方までジャブジャブで、最後の最後にストレートでKO、みたいな感じ。
この映画は、始まってから常にボディーブロウ。とにかくボディーブロウ。緩急つけてボディーブロウ。そのボディーブロウも、レバーを狙う。さらに毒を付与してくる。
だから、映画終わった瞬間は割と清涼感があるのに、その後で、ただ普通に電車乗ったり、ただ何の関係もない音楽聞いたりするだけでなぜか、精神的に辛くなる。自分の日常的動作の端端に、すずさんの大切にしていたものを見出してしまう。
この映画、何が恐ろしいかというと、このボディーブロウが付与してくる毒は、「私たちの中にすずさんを入れてくる」ことなのだ。
この映画は基本的に日常系ドラマである。戦時下ではあるのだが、その困窮する日常の中で必死に生きるすずさんのお話である。ごく普通の家庭に生まれ、ちょっと絵が上手くて、ぼんやりしていて、愛らしく、家庭的な彼女の話。
ただ、彼女が戦時下に生きていた。それだけの話なのだ。
なのに、この映画は不思議な力で私たちを殴りつけてくる。
戦争とは関係なく、すずさんの悩みや辛さを、喜びを私たちへぶつけてくる。
映画が進んで行くことで、観客は彼女の生活の中へと一緒に溶け込んでいく。彼女の感情に振り回されていく。
二時間、その時間が追える頃には私たちの中に、すずさんが生きている。
そんなありありとした、生き生きとした女性を描いた映画なのだ。
戦時下の映画ではあるのだが、この映画は他の戦争映画とは明らかに異質である。
ブラックブックの感想でも「これは違う」と言ったが、片隅は輪をかけて異なっている。
というのも、この話は最悪、戦争無しでも成立し得るのだ。
たとえば、困窮した描写などは家族の収入が落ちた、などで描写し得る。爆弾の一件は、交通事故でも可能となろう。
つまり、わりかし戦争がこの物語で重点ではないのだ……最初の内は。
しかし、この映画でどうしても戦争ではなくてならない箇所が、二カ所ある。
そのうちの一つは、彼女の幼馴染の海兵と一夜を共にするシーン。これは彼が兵隊であることが必要条件なので絶対にはずせない。しかし、前述の前提で行くならば最悪このシーンは失くしてしまってもよいかもしれない。このシーンでは、すずさんがありふれて、狂っていく世界で普通であることを証言することが重要なのだ(もちろん、このメロドラマはそれはそれで素晴らしい。とてもいいシーンで個人的に大好き)。
そして、もう一つは、戦争の終わり。玉音放送のシーン。
僕はこの映画でどのシーンが一番好きかと問われれば、このシーンだというだろう。
ちょっと個人的な趣味趣向の話になるが、僕は昔から王道のハッピーエンドと同じくらいに、秩序だったものの崩れる様や、絶対的な正義が敗北する様などが大好きなのだ。一言でいえば、愉悦。日朝の戦隊モノがどうしようもない敗北や民間人に糾弾されたり、秩序だった流れが当人の信じた行動でめちゃくちゃになることなど、本当に好き。シビルウォーで、仲間割れスーパー大戦やアイアンマンとキャプテンが殴り合っているシーンは本当に興奮を覚える(やばい人みたいだね)。
というわけでなのだが、まあ、それを置いといたとしても、玉音放送によって終戦が告げられたシーン。これはこの時代を描いた映画や物語としてはとても異色というか、目新しく感じられた。
この時代の終戦を告げるシーンは、あまりクローズアップされないのではないか。今までの悲惨さを中心に描き、全てが終わる意味でこの放送を置くのじゃないかなと。まあ、僕はあまり日本の映画を見ないので何とも言えないですが。
片隅では、玉音放送はただの終わりを告げるシーンではない。それではい、終わり、ではないのだ。
右手を失い、義姉の娘を喪わせてしまい、苦難に堪え、喪失を乗り越えようとして、ただ戦争という環境の為だと自らを言い聞かせてきたすずの慟哭は、真に迫り胸を突く。
普通の少女だった彼女が、「まだ戦える」と戦争を求めたのだ。
その瞬間、我々は気付かされる。
いつから、僕たちの見ていたすずさんは「狂って」しまったのか。
歪んでしまったのか。
原爆が落ちたからか。
あの爆弾に撃たれたからか。失ったからか。
幼馴染に再び会ったあのときか。
嫁に来たからか。
わからない。わからない。
けれど、彼女の付いて出た言葉は、狂っていながら普通なのだ。
もし彼女の立場に自分がいたら。
失いたくないモノを喪わされ、苦難を強いられ、その果てに得たものが何もない。
その現実を、どうして受け入れられるのだろうか。
すずさんの叫びは、今まで僕たちが見えていなかった、もう一つの戦争の当たり前で普通なのだ。
それを、気付かされてしまった時、彼女はどうしようもなく、狂ってなど居なく、普通なのだ。
個人的にこの映画で好みの演出が、細かな小道具や言葉がその場限りで使い捨てされていくところです。幼馴染の海兵から貰った羽ペンとか、夫の似顔絵を描いた手帳とか。言葉回しもシーンシーンで軸となる言葉が違っているんです。「歪み」とか、受傷後すぐにしか使っていなかったり、普通という言葉もあまり出てきていません。
これって、シナリオを作るにあたって自分はあまりやりません。なるべく言葉は統一させて前後のシーンで関連を持たせたり、小道具もなるべく何度も使います。
しかし、ある意味こうやって使い捨てにするのはより僕らの「日常」に近く感じられます。
僕らは日常、思わせぶりな言葉や道具など使う訳などないです。
一日一日、区切りがあるのですから、連続はしていますが、断続的なんですよね。
だからこそ、そういうブツ切り感は映画では統一性を欠きますが、逆にそれが日常的にも感じられます。
そういうのを、意図したかどうかは置いておくとしても、すごく感じました。
個人的にもう一つ最後に好きなシーン。
それは最後の最後、孤児とその母親のシーン。
まるで、すずとハルミちゃんの真逆のシーンだった。
我が子を左手に繋いで、代わりに犠牲になった母の姿。息も絶え絶えに地獄の中を歩き、腰を落ち着けて、そのまま息絶える。
そのあまりの展開に、今までのすずさんの話はifの物語だったのかと思うほどに。
これを、すずの真逆にとらえることもできるんですが、あえてせずに自分は流します。
とにかく、このシーンと、そしてそこから繋がるシーンはあまりにも美しかった。
戦争下ではあるが、あまり破壊を描かなかったからこそ、この凄惨な場面は印象に深く残る。
胸を打つシーンだった。
ただ、すずさんが生きていた。生き抜いた。それだけのお話。
だから、この物語は深く私たちに潜り込んでくる。
ダメージが大きい、いい映画でした。
ちなみに、妹の病気は恐らく骨髄不全。
大量の放射線を浴びたことで骨髄の造血幹細胞が死に絶えたのでしょうな。
というどうでもいい考察。