もるげん3分前

もるげんれえてとそのサークル「Horizont」のスペース。宣伝の他に呼んだ本や映画の感想を書き捨てる場所。pixiv→http://www.pixiv.net/member.php?id=270447、ツイッター→https://twitter.com/morghenrate

母に告げる「さよならの朝」

どうも、皆様お久しぶりです。

無事、大きな試験を超えて現在は合否発表までニート中。

モンハンやったり、今まで会えなかった人たちと会ったりしながら、学生最後(となる予定)の休みを満喫しております。

 

さて、本当なら久々の投稿は創作関連に関する、全く別の記事にしようと思っていました(現在その記事を執筆中)。

ところが今日、久々に大当たりの素晴らしい映画に出会ったのでそのレビューをしたいと思います。

というわけで今回見てきたのは「さよならの朝に約束の花をかざろう」です。

「っは~~、例のごとくの長タイトルか~~~どうなんやろな~~~」

と期待値低めで見に行ったのですが、これがなかなかにえげつない作りをしていました。

一言でいえば、「十分に練られたプロットによる良作の映画」です。

以下、ネタバレありますのでご注意ください。

 

 タイトルからは分かりづらいですが、この作品は

「長命種族(エルフ)である主人公マキアが人間の子供であるエリアルを育て、その一生を見届ける物語」

です。

イオルフと呼ばれる種族の彼らは人里離れた場所で日々ひっそりと機織りを生業とする種族。

そんな彼らが、ある日王国によって侵略される。

マキアは偶然にも生き延び、逃亡の道中で人間の赤子を見つける。

そこは、まるで自分の里のように略奪されたキャラバンの中、母親の腕の中にいた。

硬く抱きしめられた指を、一つ一つ折り、マキアはその子供を抱いて人里へ降りていく。

そこから彼女は赤ん坊、エリアルを育てていく。

何も知らない彼女は必至に育ていく。

孤児であるマキアは母親がどんなものか知らない。

それでも、見よう見まねで、必至にエリアルのために日々を過ごしていく。

やがてエリアルは大きくなるが、実子ではない自分になぜこうも良くしてくれるか分からないマキアと気持ちを擦れ違わせていく。

そんなエリアルは王国の兵となるためにマキアの許を去る。

同じくマキアは王国に敵対する連合国にさらわれてしまう。

いよいよ戦争の火ぶたが切って落とされる。

マキアと離れ数年たったエリアルは妻を取り、その腹には赤ん坊がいた。

しかし、兵士であるエリアルは戦争に狩り出されていく。

襲撃される王都。その最中、エリアルはマキアとすれ違う。

しかし二人は言葉を交わすことなく、離れ離れになる。

エリアルは戦場へ。

マキアは、偶然にも産気づいたエリアルの妻の許へ。

赤子の産声とともに、戦争は終わりを告げた。

 

こんな感じで、この映画は主軸をマキアとエリアルの二人に置いている物語です。

一見これは、二人の母子の物語に見えますが、その実は「マキアが母親になる物語」出もあります。

つまり、エリアルの内面性より、マキアの精神的成長がこの映画の肝なのです。

何もわからなかった赤子のころ。

成長し、やんちゃになり、手を煩わさせるようになったころ。

思春期となり、その距離が広がっていくころ。

その全てでマキアはずっと苦しみ考えます。

自分は母親たり得るのか。私はお母さんになれているのか。

きっとこの問いは多くの人に投げかけられている問です。

映画では、マキアは答えを得ます。

生まれてきたエリアルの赤ん坊。その手がぎゅっと彼女の指を掴む。

それは在りし日のエリアルのように。

それでよかった。ただ、それだけでよかった。

それがきっと、マキアにとっての母親ということだった。

しかし一方で、この問いに別の答えを与えられてしまったものもいます。

マキアの友人であるイオルフのレイリアは、王国の王子の妃となり、子を孕みます。

けれど、生んだ子はイオルフの血が薄く、人間に近い見た目の女の子だった。

やがて彼女は次の子もなせず、その子供とも離れ離れにされてしまう。

全てを失った彼女にとって、その子だけが心の支えであった。

しかし物語終盤、レイリアは娘との再会を果たす。

「誰?」

それが娘からの言葉だった。

その娘にレイリアはこう答える。

「私を忘れて生きて。私も、アナタを忘れるから」

あまりにも鮮やかなこの二つの親子の対比は、果たして血のつながりが、そして日々の重なりが一体どれだけ大切なのかと、私たちに問いかける。

 

しかしながら、実はレイリアのこの言葉はただ親子の関係だけでは決して見れない重みがある。

この映画のもう一つの主軸は「別れの種族であるイオルフ」であり「伝説として消えていくものたち」の物語なのである。

映画の中ではイオルフと同様、幻想の種族として龍が存在する。

そんな彼らも次々と病で死んでいく。

イオルフの同様に消えゆく伝説の者たちになる。

彼らは人の間では生きられない。

あまりに長命すぎる彼らは、無数の別れを繰り返してしまう。

なにより、人々が忌避してしまう。

だから、彼らは消えていくしかない。

レイリアの言葉は薄情にも聞こえる。

だが、このことを踏まえた上で、あの言葉の真意は

「私は伝説の中に、貴方は人の中に還っていく。だから、お互いに交わったものを忘れ、自分たちの場所で生きていきましょう」

そういうメッセージだったのではないか。

だからこそ、母からの言葉を聞いた娘は「私のお母さん、きれいな人だったんだ」と微笑み、マキアはそんな彼女に「忘れないよ」と言葉をかける。

 

子は、いつか親から離れていく。そして親になる。

一人の人間となる。

そしてそれは逆でもある。

親は、いつか子から離れていく。

一人の人間になる。

「親」と「子」のラベリングによって見えなくなっていたものが、お互いに距離を取り、離れ、一人の人間同士になって初めて見えてくるものがある。

けれども、それでもどこまでたってもお互いに、その絆という糸は「親子」なのだ。

老人になり、今際の際のエリアルにマキアは会いに行く。

そっと触れた手は、いつかのあの日のように。

この時、自分は涙で画面が歪んでよく見えなかった。音も聞こえなかった。

けれど、エリアルが何かを言っていた。

それが何なのか。

ひとつわかることがあるのは、マキアが息絶えたエリアルに掛けた布は、初めてエリアルと名付けたときに身をくるんでいた布だった。

その意味が、全てだと思う。

 

「お母さんは泣かない」

この作品の中で強く出てくるこの言葉は、何人かには忌避的で、差別的に聞こえることだろう。

だが、そうではない。

この言葉は約束なのだ。

エリアルが「僕がお母さんを守る」と、

マキアが「お母さんは泣かない」と、

二人が結んだ約束なのだ。

マキアが抱え込んだ覚悟ではない。

マキアが自分を責める言葉ではない。

ただ、二人の絆を示す言葉なのだ。

だから、エリアルが旅立って、マキアはようやく泣くことができた。

マキアが母親ではなく、一人の人間としてエリアルを痛み想い、その日々への涙なのだ。

「お母さんは泣かない」

誰かを守るための約束を果たしたからこそ、その涙が溢れる。

 

これは「親子」の物語である。これは「別れ」の物語である。

この映画には「ヒビオル」という重要なキーワードが出てくる。

物語冒頭のモノローグで「縦糸は時間の流れ、横糸は人の交わり」とある。

ヒビオルとは織物のことであり、あるいは記憶、あるいは、人生を指す言葉。

エリアルを見つけた時、マキアは「この子は私のヒビオル」といった。

まさにマキアにとって、彼女の日々はエリアルそのものだった。

しかし、エリアルが死んだあと、彼女は共に旅する御者に「新たな別れを求めて」と言われてこう答えた。

「私が生きている限り、エリアルのヒビオルは終わらない」

縦の糸は時間。決して止まることのない糸。

横の糸は人。紡がれていく色彩。

イオルフの布は真っ白で無地であったが、やがて彼女たちが纏い織る布は色彩に満ちていく。

きしくも、里を襲われ俗世へと追い出された彼女たちは多くの人とであい、だからこそ糸が無数に、色が無限に増えていった。

私たちは生きていく限り機を織る。

それは自分のヒビオルである。

けれど、私たちは生きていく限り杼(ひ)に繋がれた糸なのだ。

それは他人のヒビオルになる。

そして、私たちの中には誰かのヒビオルがある。

私が生きている限り、それは織られ続ける。

親から子へ、そのまた子へと。

 

この映画は純粋な完成度が高く、物語もすっきりとまとまっているが、最初見ていた時は浅い印象を受けた。

しかし、見ながら考えるうちに、この映画には多くの考察の余地が残っている。

それは未完成のプロットではない。

私たちが織ることのできる、無地のヒビオルなのだ。

きっとこの映画は見る人によっていろいろな色合いを映すことになる。

母親の物語なのか。この物語なのか。出会いの物語なのか。別れの物語なのか。

けれど、一つ間違いなく言えることがある。

これは、貴方にとってかけがえのない「横糸」となる映画になるだろう。

この映画を見て、胸に手を当て、思い返し、あるいは思い馳せ。

自分の中に織られたヒビオルの色が、この映画のアナタへの色になることだろう。

 

もし惜しい点があるとすれば、名前と顔が分かりづらい。

これはどうしようもなく、この作品だからこういうものなのだと割り切るしかない。

しかし、イオルフが分かりづらいのは当たり前なのだ。

彼らは隔絶された場所でひっそりと暮らす種族。だから、彼らは無色でしかない。

だからこそ、人里に降りた彼らは様々な色になるのだ。

 

ちなみに、これ以外にももっと考察できることがあります。

たとえば、マキアはご飯を食べていたのか。

終盤、戦闘と出産が重なるシーンについて。

エリアルの心情。

ヒビオルについて。

レイリアについて。

などなどなど、本当に多くのことが考えられる作品です。

 

この映画は感情に酷く訴えかけてくる、その技法も素晴らしい映画ですが、一歩引いてみた時に伏線の回収についてや全体の構成、なによりプロットについて学ぶことの多い映画でした。

創作する人はぜひ、この映画からいろんなことを見てほしいなと思います。

 

最後に、ちょっと自分が感じたこと。

私には家族がいる。

けれど、そこに愛や絆を感じたことがない。

だから、こういう映画で見る家族にあこがれを持つ。

自分にないものだから、この欠けた隙間に温かな感情が流れてくる。

マキアはどんな気持ちだったのか。

その心はどこから来るのか。

それが分かった時、この映画のヒビオルが完成するんじゃないか。

そう思いました。