もるげん3分前

もるげんれえてとそのサークル「Horizont」のスペース。宣伝の他に呼んだ本や映画の感想、最近のこととかを書いていきます。pixiv→http://www.pixiv.net/member.php?id=270447、ツイッター→https://twitter.com/morghenrate

その面白さ、まさに三体運動の如く~小説「三体」感想~

世の中に星の数ほどの作品があれど、名作と呼ばれる作品は数少ない。さらに言えば名作というものに出会える機会は一握りの砂ほどもないだろう。
思うに、名作に出会えることは本当に奇跡のようなもので、そういった作品と出会えるたびに自分は感謝してもし足りないほどに作品と作品を書いた著者に感謝するのだ。
だんだんと年月を経て、心が硬直していくと名作に出会える機会も、名作と思える機会も減っていく。
なぜなら、名作とは自分の枠を軽々と越えてゆく作品なのだから。
年齢を重ねてしまうと、どうしてもその枠は強固に広がり止まり、大抵のものにレッテルを張って、したり顔で批評してしまうのだ。経験は未知すらも自分の経験と比較することで、真新しくも感じさせなくなってしまうフィルターとなる。
だから名作に出会える機会はだんだんと少なくなる。己の経験で測るために、既存の作品だなあ、なんて思ってしまうのだ。
しかし、そんな風に斜に構えたとしても、我々の想像を凌駕するような作品はどこからともなく、まるで進化の突然変異のように発生する。
――いや、決して突然変異ではない。生まれてくる土壌はできていたし、評価されるための社会も完成していた。
偶然にして誕生し、必然として評価されただけなのだ。
ただ、あまりにも強大すぎただけなのだ、それが。
 
その1作目を読んだとき、数年来に”寝食を忘れ”読み耽った。
読み終わったとき、早く続きが読みたいと渇望した。
そして今年、本屋にたまたま寄って、続巻が棚に置かれていたところまでは覚えている。
次の瞬間には、私のリュックサックの中に納まっていた。
決して万引きなどではない。レジを通してレシートを受け取りリュックサックに入れたのだ。ただ、一瞬の出来事で覚えていないのだ。
そんな、私にとって奇跡のような名作。私の常識という面壁を打ち破り、破壁した恐るべき1冊。
それが「三体」である。
 
今日はこの劉・慈欣(リュウ・ジキン)作の現代最高峰のSF小説、三体の感想を書いていきたいと思う。
ただ、ひとつ。もしここに三体を読まず、この感想を読んで買おうか悩む人がいるなら、こう言おう。
 
「買え。読め。それだけで三体の素晴らしさはわかる」
 
この1冊には、2000円以上の価値が含まれ眠っている。
ただ、中国近代史、できれば中国史のあらまし自体を知っておくと、この小説のすばらしさについて何重にも気付くことができるだろう。
なので、ここから先は「三体」読了後、少なくとも「暗黒森林」まで読んだ上で進んでほしい。
まあ、1巻を読んだなら2巻はさっさと読んでしまっているはずだと思うがね。
 
 
この「三体」という小説は異星人との邂逅の物語である。
人類以外の異文明に人類が出会い、異文明に対して対抗するだけの話である。
たったそれだけなのだ。
つまるところ、「星を継ぐもの」などに連なる異星人邂逅ものであり、そういったジャンルとしては真新しくはないのだ。
たったそれだけの小説なのに、何故この小説はこれほどまでに――具体的にはオバマが愛読し、SF最高峰の賞であるヒューゴ賞を受賞――評価されるようになったのか。
 
第1に、それは描写力である。
この小説には数多くの科学的、それこそ古典物理学量子力学、宇宙物理学、天文学などなどの幅広い、そして最先端の知見がこれでもかというほどに散りばめられている。
物理嫌い、数学嫌いにはとても取っ付きにくい話だろうに、何故かこの物語ではスルスルと読めてしまうのだ。
分かりやすく、丁寧に、それだけではなく小説としての体裁を保ち、あるいはその説明自体が一つの表現描写として成り立っているのだ。作者自身の科学に対する深い造詣の為せる技であろう。
それだけではなく、ただの情景描写、心情描写にすら作者の腕が垣間見えるのだ。
あたかも古代中国の詩を読んでいるかの如く、西欧や日本の小説にはない、独特の描写力がある。それは時に、そこはかとない懐かしさを抱かせるほどの色合いがある。
これはコテコテの科学小説であるというのに、科学が得意苦手関係なく読み手を引き込む。むしろ読み手に科学の興味を抱かせるほどの描写力があるのだ。
 
第2に、それはSFとしての設定力、プロット構造である。
SFとは、これは個人的な所感であるのだが、「科学技術、あるいはそれに関する空想技術を用い、社会変革を想定した世界において人間というものを再定義する」ジャンルであると考えている(これについてはそのうち語りたい)。
広義では「科学技術の空想小説」がSFであるが、自分は狭義である上記の条件をこそSFと定義している。
私のSF定義においても、三体は素晴らしく、そして恐るべき角度から”人間”というものを抉ってきている。
三体小説の真に恐ろしいところは、全ての技術が(第1巻の時点、あるいは第2巻中盤まで)基本的に現存する科学技術のみで構成され、さらには一部は論理的に実装されているという点だ。
三体文明については智子(ソフォン)の辺りについてはかなりオーバーテクノロジーではあるが、それ以外の、少なくとも人類文明側は現代科学から一歩か半歩程度進んだ位置にしかないのだ。
これはSF小説というジャンルの中でもかなり特異的である。SF小説の中では、基本的には「極端な未来において極端に科学的技術が発達している設定(未来設定タイプ)」「過去のある時点から決定的に世界が変わってしまっており、それに伴って科学技術が変化した設定(歴史改変タイプ)」が王道なのだ。
むろん、「現代あるいは少し未来において超技術を持つ文明と邂逅、接敵する設定(邂逅タイプ)」もそれなりに数ある設定だ。ただ、このタイプでは敵文明の技術を奪う展開が多いのだが、三体はここから一歩先んでている。
つまり、「技術の停滞」である。
これはSFにとって恐ろしいアンチテーゼである。技術革新によって舞台設定を作り上げるSFジャンルにおいて、その核である技術を頭打ちにするとは、一体全体どういう了見なのか。
たとえるなら、ファンタジー小説でいきなり魔法が使えなくなるようなもの、時代小説の登場人物たちの価値観が現代の価値基準と入れ替わってしまうようなもの、ミステリー小説でいきなり犯人が「私がやりました」と告白するようなものだ。
科学技術の停滞というのは、SFジャンルの前提条件そのものをぶち壊してしまっているのだ。それを、この小説ではやってのけてしまっている。
一方で、そのために様々な概念が登場する。それは2巻「暗黒森林」においてより一層際立つ。
智子による技術の停滞は三体文明において最も恐れられる「相互コミュニケーションの不透明さ」をより一層際立たせ、人類文明と三体文明の対比につながる。そして、「面壁者」「破壁者」といった、新しい設定の登場を映し出すのだ。
技術の停滞によって新しい世界設定を切り出すそのプロット力は、まさにSF界におけるシンギュラリティである。
これは、決して私の定義には反しない。重要なのは「科学技術」で「世界を変え」「人類とは、と問うこと」なのであり、三体はそれを叶えている。
技術を停滞させるという科学技術の空想技術という、パラドクスこそがまさ、この三体の肝ともいえよう。
 
余談だが、個人的に「暗黒森林」のテーマは「コミュニケーション」だと思う。つまるところ、我々人類でも「暗黒森林」は続いており、それを打開する方法は「信愛」か「恐怖」しかないのだ。「面壁者」と「破壁者」、「地球文明」と「宇宙文明」、「人類文明」と「三体文明」の構図の中で、これだけ殺伐として硬派な設定の数々を作り上げながら、なんともロマンティックなモチーフが浮かび上がるのは、歯がゆくもあり、しかし、浮き上がったテーマは確かにこの手の中にあるのだ。
 
第3に、それは文化文明である。
はっきり言えば、この小説は他の文明でも生まれた。他の文化でも書くことができた。だが、その場合にはここまで評価されることは決してなかったと、私は言いたい。
この小説が真に評価されるのは、まさに第1巻の冒頭から続く、もう一人の主人公「葉文潔」の人生そのものである。
私はまだ三体は第2巻までしか読んでいないので、最終巻まで読んだうえでのこの物語のテーマというものが分からないのだが、少なくとも現状まで考えうるテーマが「愛と罪」だと思う。
愛については「暗黒森林」で深く語られている。一方で罪については1巻で描かれた。
つまり、文化大革命を生き延びた葉文潔の人生そのものだ。
それはただの罪ではない。他の文明では、他の文化圏ではけっして経験しえない、ある意味人類種のうちにおける究極のヒステリー、究極の反知性主義、究極の粛清を経験した中国という文化・文明の土壌があってこそ葉文潔が抱いた怒りと罪とを描きえるのだ。
ただの文明の発展による犠牲者では得られない、ただの自由を求める闘争では得られない、ただの一発の爆弾で十数万人の命が屠られても得られない、ただの文化をめぐる紛争の被害者では得られない、文化文明という人類の英知によって裏付けられた恐ろしい罪がそこにあるのだ。
この部分を読んだとき、ぶっちゃけ「これ中国で出して平気なの!?」と驚愕したものだ。それを書いた作者には本当に頭が下がる。現代の中国の表現規制がどの程度かは分からないが、少なくとも死んでいてもおかしくないレベルの描写なのだ。
しかし、この裏付けがあるからこそ三体のテーマは深く重く、決して動きえない天体の中心点となる。
(余談だが、冒頭数章はやはり中国語版ではカットされているそうです。)
 
この3つの力点こそ、三体の魅力を観測不能にする三体運動の定理なのだ。
まさに前代未聞で衝撃的、予測不可能の内容。
次の展開はどうなる?どう打って出るのだ?人類は?三体文明は?
手に汗を握り、寝食を忘れ、当直中なのに読破してしまうほどの面白さ。
この世の大抵に驚かなくなっていた自分の鼻をへし折っていく、鈍重でありながら軽快な小説なのだ。
 
ちなみに、この小説の作者は間違いなくガチの日本好きである。
第2巻で出てくる日本人に銀英伝の一説を諳んじさせているのだ。
なんなら本人も銀英伝好きらしい。
 
最近ではアニメ化、映画化の動きがあるらしい。ますます目が離せない作品である。
是非とも早く3巻が読んでみたいものです。