『話す』だけの簡単なおしごと?
精神科を揶揄するときに、
「話を聞いて薬を出すだけだから簡単な仕事だよな」
と言われることがあります。
ある意味、精神科がハイポ(あまり忙しくない、暇な科の意味)とよく言われる理由のひとつです。
精神科がハイポかと問われたら、自分は全くそんなことはないと思います。が、それはそれとして(この話も闇が深そう)。
この「話を聞くだけ」と言う話には続きがあります。
「そんなんいうなら、お前もやれよ」と言えば「いや、俺には無理だよ(笑」という答えが返ってくるのです。
なあんか、妙なことですよね。
「話を聞く」だけの楽な仕事のはずなのに、君もどうだい?と返せば十中八九「無理」と帰ってきます。
どうも、この「話を聞く」というのは「楽」という側面と「たいへんなこと」という側面の二面性があるようですね。
これはどういうことなのかなあ、と。
しかし、ちょいと考えればなんとなく事の問題が見えてきます。
精神科において「話を聞く」というのは、内科における「診断・検査し治療薬を出す」に近く、外科における「手術をする」に等しい。
つまり、治療的な行為です。
そして、話すこととは現代社会では普遍的な行いで、日常生活中でもごく当たり前のように行われ、それもそこまでのコスト、労力のない行いと思われます。
そう考えていくと、精神科の「話を聞く」を外科の「手術」と比べれば、確かに「楽」ということはできますね。
他方、普段でも会話の中からいざこざが生まれたりトラブルになったり、そういう経験はほとんどの人で見られるのではないでしょうか。
ただ「話を聞く」だけでも、その難しさはなんとなしに理解しているのではないでしょうか。
そこに医療者なら、精神科患者という難しさ(どうしても、精神疾患は対人関係に強く影響してしまう。それは患者本人の問題だけではなく、疾患の問題も内包されている)を知っている。
だからこそ、「話を聞く」だけなのだけれど、同時にその難しさも理解しているのではないかな、とそう思うのです。
またそこに、「3分診療」などの問題が組み合わさることで「適当に話を流して薬を出す精神科」的なイメージができてしまうのではないか。
ここまで来るとやや妄想的かもしれませんが、少なくともこういった流れはあるのではないかなと思います。
事実、自分のよく知る医療同業者は精神科をけして簡単な仕事とは言わず、たいていは「大変だねえ」と同情的に迎えられることが多いです。
ここで話したいのは、精神科がハイポかどうかとか、精神科患者が大変かどうかとかではありません。これはこれでいろいろ話してみたい話題ではありますが。
なぜ、「話す」という日常的行為が、こんなにも「難しく」なるのか、ということです。
以前、自分のブログで「語る」ことについて話したことがあります。
この回は自分自身の特性と性格傾向からの、もるげんなりに改良した会話術を話しました。
つまり、普段のもるげんの会話、という意味です。
ここからはさらに場面を限定して、「診察」および「面接」に絞ります。
あ、診察と面接ですが、あまり深く区別しません。基本的にどちらも患者と治療者が1対1で話し合う場面という意味くらいです。
ここまで場面が狭まると、治療者には自然とある種の姿勢が生まれます。
かつては「パターナリズム的」な、あるいは「教師的」な姿勢であったと言われるようなものであったり。
現代に生きる若手医師なら医療面接の勉強で耳にタコができるほど聞いたワードを思い出すことでしょう。
つまり
「傾聴」と「共感」
です。
これはカウンセリングにおけるもっとも基本的かつ重要な技法です。
治療者は患者の話にただ耳を傾け、聞き取り、否定せず、時に患者の気持ちに寄り添う。
さて、普段の生活でこれをやってみると結構大変だというのが分かります。
会話とはたいていキャッチボールです。それも双方向のほぼ均等な。
しかし、この支持的な傾聴の姿勢は自分が話す言葉を少なく、相手より多くのボールを投げかけられ、受け止め、加えて適切に返す必要があるのです。
もしこれを読んでいる方がいたら、どこかでやってみてください。
ひたすらにただ話を聞くというのは、存外に難しいことがよく分かると思います。
「傾聴する」というのは大事です。
まずこれで医師患者関係が構築されます。この関係がなければ治療関係まで進めません。
治療者の姿勢から、「ああ、この人はちゃんと聞いてくれるのだな」という気持ちから患者の治療が始まるわけです。
「話を聞いて薬を出す」
この言葉を言うだけなら簡単ですが、そこに辿り着くまでにはちゃんとした下地が必要なのです。
補足ですが、話をしっかり聞く傾聴は大切ですが、何十分もしゃべり続けてしまう人、話がなかなかまとまらずあっちこっちにいってしまう人、逆に全くしゃべれなかったり話すことが苦手な人と、そんな人たちもいます。
そういう時は話をやんわり遮ってまとめたり、主導権を握りなおして質問しなおす、選択肢のある質問を使う、などの手法を使います。
ここにも、ただ「話を聞く」だけの難しさは内包されいます。
患者一人一人にあわせてどうやって診察を進めるかも難しいところです。
さて、この治療者と患者との関係性は他の身体科でも重要ですが、しかし精神科は別の意味合いを帯びることになります。
ここで自分が話題にしたいのは、
「転移」
と呼ばれる現象です。
初耳の方も多いでしょう。
これはフロイト先生が打ち出した、精神分析における偉大な発見の一つです。
どういうものかというと、フロイト先生は精神分析の治療中に、患者がかつて自分の親(あるいは大事な人)に向けていた感情を治療者に無意識に向けてくることを発見したのです。
この転移を扱うことが精神分析の重要さなのですが、転移自体は精神分析でなくても発生しえます。
治療者はこの転移によって、患者から強い陽性の感情を受けたり、殺意にも似た陰性の感情を受け取ることになります。
当初は患者ー医師の関係性だったのが、それを崩すかのように様々な感情を持ち込まれてしまうのです。
さらにこの転移は、基本的には患者側の病理を反映したものと言えるのです。
そして心に病理をもっていない人はおらず、時に治療者自身の病理が転移してしまう、「逆転移」と呼ばれる現象が起きることもあります。
それだけでなく、患者の強い感情や行動に対して治療者が陰性感情を抱くことは決して少なくありません。
それはさながら、かつての親が抱いた感情と同じように。
(注釈:これを逆転移ということもあります。この辺りはなんか、まだ自分もどっちが真の意味の逆転移かあまりわかっていません。基本的には治療者側の転移を逆転移というはず)
極端な例では、精神分析の黎明期には患者と性的関係を持ってしまう人すらいたそうです。
それだけ、時には診察室の中では強い感情のぶつかり合いが起きることもあります。
この転移が問題になる場合は、多くは病態が重い患者でしょう。
そのため精神科治療者はときにスーパーバイズと呼ばれる、他の医師から症例についてのアドバイスを貰ったりします。
そうすることで冷静に症例を見直すことができ、あるいは治療者自身の病理に気付くこともできます。
ちなみに、自分はこのスーパーバイズで「お前の診察には感情がこもってない(意訳)」と言われ非常にへこみました。
アドバイスには自分の病理が隠れていたのです。
なかなかに、鋭い指摘でした。
確かに、我々精神科は基本的に診察室の中で話を聞いて、多くの場合は薬を出す診療をします。
けれどもその「話を聞く」というのはただ聞くだけではないのです。
患者に寄り添い、しっかりと耳を傾け理解しようと心がける姿勢があり、
同時に、患者と医師との間に時に起こる感情を見つめる作業であったりします。
また、認知行動療法などの精神療法は、ただ「話す」だけですが薬物治療並みの治療成績もあります。しかし、その話すことも、聞くことも、ある「構造」の下で成り立って初めて効果が出ます。
事実、現在の日本ではただ「話を聞いて薬を出す」だけの診察をする人もいるでしょう。
けれど、どうかそれがすべてではないことを知ってほしいです。
何よりも、「話を聞く」ことの難しさと奥深さを、少しでも知ってほしいなと思います。
今日は「話を聞く」ことについていろいろと話してみましたが、いまだに語り切れず、また自分の考えもまだまだまとまっていないなあ、と気づきました。
この話題はまた出してみようと思います。転移についても消化不良ですし。
まだまだ、多くの意見や体験に「耳を傾け」なければ、ね。