もるげん3分前

もるげんれえてとそのサークル「Horizont」のスペース。宣伝の他に呼んだ本や映画の感想、最近のこととかを書いていきます。pixiv→http://www.pixiv.net/member.php?id=270447、ツイッター→https://twitter.com/morghenrate

ピーター・パーカーの家路 ~スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム感想~

 いやあ、待ちに待ちました。
 MCUスパイダーマン最新作、「No Way Home」。
 ……題名からしてまたピーターがつらい目に合うのが見え見えなのです。
 というか、これまでもピーターはつらい目にしかあっていませんよね。
 そんなトム・ホランドが演じるピーターがはたして幸せになれるのか。
 そして過去作がどれも傑作な中で3部作としてトリを飾るこの作品がどのような映画になるか。
 わくわくしながら見てきました。
 
 その感想を書いていきます。
 言えることはこの映画は良作でも、神作でもない。
 ただひたすらに「やばい」映画なのである。
 間違いなく今年の、そして自分の見てきた映画の中で、上位に食い込む映画なのである。
 

 

3人のピーター・パーカー

 
 予告編からわかっていた通り、この映画では他のバース(宇宙)からスパーダーマンの敵が招かれてしまい、その敵に対してピーター(トム・ホランド)のスパイダーマンがどう立ち向かうかというのがあらすじである。
 そこでピーターは彼らへとの敵対を取るか融和を取るか。「親愛なる隣人」「大いなる責任」をどう果たすかを試されるわけである。
 ある意味、これまでがアベンジャーズでの大きな戦いであった中で、Far From Homeから続くこの戦いはピーターに対してヒーローとしての自覚、スパイダーマンのマスクをかぶることの意義を問いただし続けているわけなのだ。正論が正論なだけで理解されるわけでもないこの世の中で理不尽と悪意にどうやって立ち向かうか。ピーター・パーカーとスパイダーマンをどうやって両立させるのか。その天秤をどのように調整するかがこの映画のテーマである。
 実際にその通りに進み、ピーターにとって唯一の肉親であるメイおばさんは彼の良心によって命を落とすことになる。正直、死ぬとは思わなかったけどなあ。本当にあのシーンはつらい。トムホにあんな顔をさせないでよ。一生見てられる(矛盾)。
 
 さて、問題のシーンはメイおばさんを喪い、ジェイムソンに糾弾されて打ち砕かれたピーターのカットの後にやってくる。
 MJとネッドの二人がドクターストレンジの魔術でピーター・パーカーを呼び出そうとするのだ。
 何とか成功してしまい、彼らの前にはスパイダーマンが現れる。
 だが、遠目にだけれども何かがおかしい。妙だ。トムホの体形は見慣れているけどどうもこのスパイダーマンは身長がおかしい。それにもうちょっとひょろりとしている。デザインもどことなく違う。
 正直、ここでは「ははぁん、そりゃ別宇宙のスパイダーマンが出てきてもおかしくないなあ」程度にしか考えていなかった。いませんでした。むしろ「ここで新キャラを出して、どうやって収集を付けるのかなあと」
 そう高を括っていたのです。
 
 余談ですが、私はこの2、3日前に「アメイジングスパイダーマン」を見ていたんですね。
 
 マスクを外して、そりゃもうびっくりしました。呼吸が止まりました。
 
 
 もう映画館でも悲鳴にも似たため息が上がりましたよね。
 こんなの普通はできないと思うんですよ。新しいスパイダーマンで、過去の敵キャラが出てきていて、それくらいかなあって。
 思いついてもできないし、やろうと思わない。過去作品の主人公を、役者もそのままに出そうなんて。狂行ですよこれは。
 しかももう1人来るわけですよ。ライミ版が。
 
 
 まさかのライミ版、アメイジング(マーク・ウェブ)版のピーターが集まってしまうのです。こりゃもうピーター・パーカー・リアリティショックですよ。JOJOならぶつかって消滅しちゃいますよ。
 なんだこれは。もう訳が分からない。とにかくすごい。
 いや、最近のマーベルスタジオというか、ディズニー傘下になったことでフリーガイでも似たようなことはしていますが(例:「ぼくの盾が!」)。
 しかしこの事態は明らかに次元が違う。ただのオマージュとかではない。過去の作品と連続性が完成してしまうのです。この映画が「トム・ホランドのピーターの物語」だけではなく、それ以上の情報と繋がって作品自体の深みが強くなってしまうのです。
 これは一方でこれまでの作品を知らない人(たとえば自分はライミ版を実はまだ見ていなかったのです)には疎外感を与えてしまい、冷めたような演出になってしまうこともあります。ただ、この映画ではそれは巧みに回避され、メイおばさんの死と二人の過去の境遇を重ねてそれぞれのピーターの悔恨を明示しつつ、見る側の共感を得やすいように誘導しています。
 なによりも、その悔恨によって二人の行動がより明確に、美しく描かれるのです。アメイジングであればグウェンを救えなかった過去を出しておき、MJを助けることで彼の過去を乗り越えさせる。これは過去の彼をよく知っていれば知っているほどに嬉しいことなのです。
 この映画には、これまでのスパイダーマンを追いかけてきた人へのご褒美があまりにも多く詰めこまれていて、また見ていない人にはより興味を持たせる、そんな素晴らしいギミックを仕込んでいるのです。
 
 三人で「君だって素晴らしい(アメイジング)!」とガーフィールドを励ますシーンは抱腹絶倒でした。そんな小ネタもたくさんあるのです。
 
 どれをとっても、過去のヴィランもピーターも汚すことなく、リスペクトによって昇華している。本当によくできた映画です。
 

ピーター・パーカーの家路

 
 過去のスパイダーマンとのつながりは本当にすごかったですが、あくまでそれはサイドのお話。やはりトムホラピーターのお話をちゃんと語らないといけないと思います。
 さて、他のバースのピーター同じく、このピーターパー・パーカーも随分とひどい目にあいます。主におじさんたちから。
 シビルウォーおよびHome Comingではスタークおじさんが彼の才能を見出し、スパイダーマンのスーツを与えます。しかし、結局はスーツを没収してピーターは独力で事件を解決する。その事件も自分が好きな女の子の父親が敵ということもあって非常に後味の悪い終わり方。マーベルスタジオ時空での社会を反映した敵役との相対は、まさにピーター・パーカーの等身大の在り方をまざまざと見せつけられます。宇宙の存亡をかけた戦い、などではない、ただのエゴとエゴのぶつかり合い。その泥臭さ、リアリスティックな動機こそがピーターにヒーロー活動の何たるかを語り掛ける。
 Far From Homeでは修学旅行という私事としては最大級のイベントをこなしながら、つまりプライベートとヒーローの境界線がピーターの物語になる訳です。その最中にまた、ミステリオというおじさんにいいように遊ばれてしまうわけですよ。ピーターは魔性の男の子なのかしら。
 その中でスタークから譲り受けたイーディスの眼鏡と己に見合うものなのかと葛藤するピーター。結局はミステリオの策謀にハマってしまうわけであるが、ここでもピーターに再びヒーローというものを問うてくる。
 つまるところ、これまでのピーターの旅路は「ピーター・パーカー」という1個人と「スパイダーマン」というヒーローの折り合い、あるいはスタンスへの疑問定義なのである。Home Comingにおいてピーターに絶対悪はなく、時に身近な者が敵となり友人でもあるかもしれない、ピーターとして損を取ってでもヒーローを為さねばならないという葛藤を、Far From Homeではトニー・スタークという偉大な師を前に、それを喪い悲しみながらもヒーローとしてなすべきを為さねばならないことと私(ピーター)としての自らを律することの衝突を描き出す。
 これまでのスパイディーシリーズにもあるように、トム・ホランドのピーター・パーカーは終始「ヒーローとは何なのか。自分はピーター・パーカーなのか、スパイダーマンなのか」という難しい問題を迫られる。そしてまだ高校生の彼はその場その場で何とかしながら、しかしこの答えをまだ出せていなかった。
 この点については他のシリーズと決定的に違い、彼は”成り行き”でスパイダーマンになったに過ぎない。ライミ版やアメイジングではベンおじさんがピーターの過失もあって死ぬことで彼のヒーローとしての動機付けを行ったけれども、トム・ホランドはただトニー・スタークによってスパイダーマンに仕立て上げられたにすぎない。経緯や選択のタイミングはあれど、ここにおいてピーターはまだスパイダーマンになる、つまり「親愛なる隣人」になる選択をしていないのである。
 このピーターはピーター・パーカーとスパイダーマンの間で揺れ動いているのだ。
 未だ出ぬこの答えと選択こそ、No Way Homeのテーマである。
 

ただの「親愛なる隣人」へ

 
 そしてNo Way Homeにおいて、ピーターはようやくその選択をする瞬間に立ち会う。
 経緯はどうあれ自らのミスで他のユニバースから招かれたヴィランたち。彼らを治療し元の宇宙へと戻すことを決めた。
 だがこれは裏目となる。グリーンゴブリンの裏切りにあい、彼は打ち砕かれただけでなく唯一の肉親であるメイおばさんを亡くしてしまう。
 彼は初めて、ここで他のスパイダーマンたちと同様にスタートラインに立ち、だが彼らとは決定的に異なる立ち位置に立つこととなる。
 例えばアメイジングではピーターの不道徳な行動によってベンが死ぬわけだが、今回はその真逆である。彼の道徳的な行いが結果としてメイおばさんを殺してしまうことになった。
 他のピーターたちとは異なり「復讐」や「過去の悔恨」、「道徳」によってスパイダーマンになる訳ではなく、同じ理由でスパイダーマンを辞めることを選択できたのだ。
 そして最後に彼は全ての人々の記憶から消え去る選択をする。友情も愛情もすべてを捨て去り、ただの「スパイダーマンになってしまうのだ。
 だが、ピーター・パーカーの本当の選択はここではない。この選択は「お前が消えなければ世界は致命的に傷付く」あるいは「愛する者が再度傷付く」という脅しのようた選択なのだから、選ばざるを得ないのだ(それでもこの選択をする彼の心の奥にあるメイおばさんから受け継がれた「偉大なる責任」を果たす道徳心があったのだ)。
 すべてが解決し、MJのドーナッツ屋へ訪れる。再びの自己紹介を練習しながら彼はドアを開けてMJと再会をする。やはり彼のことをおぼえていないMJ。
 きっとMJやネッドならピーターの言葉に耳を貸し、本当かよと疑問をおぼえながらけれど彼を信用したことだろう。この二人なら、きっとそうなっていたはずだ。ピーターもそれをよくわかっていた。
 声をかけるのにまごついている間に、MJの額の傷を見てしまった彼はメモをしまってしまう。和解の道が、そうでなくとも再び友人として、ピーター・パーカーの友人たちに戻れる未来があったはずなのだ。それでも彼はそうしなかったのだ。
 この瞬間にピーターは自分の「家路」を閉ざした。家とはピーター・パーカーである。彼を知り愛する全てである。彼に繋がる縁なのだ。そして心から安心して休むことのできる居心地のいい安息である。
 誰も彼を知る者のいないこの世界では、そして血縁すらない彼には家と呼べるものは消え失せてしまったのだ。
 同時にこの選択は彼が「大いなる力に伴う大いなる責任」を果たすために「親愛なる隣人」になることなのだ。
 もはや天秤は崩れ果て、ただ「スパイダーマン」の皿だけが高々と掲げられている。復讐や後悔ではなく純粋無垢な道徳と責任の為にピーター・パーカーはいなくなりスパイダーマンのマスクを被ることにした。
 ヒーローの条件は、己を賭して人々を救うこと。己とは、私生活であったり時間だったり金であったり様々であるが、ピーターは己の「家」を賭したのだ。
 忘れ去られるだけならいい。もはやスパイダーマンがピーター・パーカーと誰も覚えていないのなら、彼にはスパイダーマンの力を封じてMJやネッドと友人になることだってできただろう。それでも彼はそうしなかった。
 真に愛する者のために、そして真のヒーローになるために彼は住み慣れた家を離れてマスクをかぶった。彼の選択は尊くて価値のあることだが、これほどまでに残酷な選択はあるだろうか。そしてその残酷さを誰も分かっていない、分かることができないのだ。
 それがあのスイングである。クリスマスの輝かしい街並みを一人滑空するスパイダーマン。あれほど悲しいスイングがあるだろうか。
 あのシーンを見て、涙は出ずにただため息しか出せなかった。
 これが、ピーター・パーカーの独り立ちだというのだ。
 

終わりに

 
 MCUスパイダーマンのみならず過去の映画版スパイダーマンをも巻き込んだこの作品は、良作とも神作とも言い難い、「怪作」であり「快作」である。
 過去のすべての時間を吹き飛ばすほどの心地よさを秘めていながら、しかし一人の少年の終わりにここまでの重みを与えるこの作品は間違いなく偉大な作品と私は思う。
 マーベル作品の中では特にスパイダーマン関連好きだったのだが、この作品はそういった域を超えてしまった作品となった。
 ここで終わってほしい気持ちもあるが、せめて、もうちょっと幸せなトム・ホランドが見たい……。
 
 ともあれ、これまでのスパイダーマンシリーズを見ていた人にとってはこの作品は非常に意義深い作品であり、ピーター・パーカーの家路を巡る物語の終止符でもある。
 本当に、よい作品だった。彼の旅路に幸多からんことを祈る。