孤高、信頼、継承
シン・ゴジラから7年。
シン・エヴァから2年。
シン・ウルトラマンから1年。
……シンゴジからそんなに経ってたの?
時の流れが速すぎる。
さて、久々に映画館で映画を観てきました。
その名は「仮面ライダー」
「シン・仮面ライダー」
あの庵野の最新作で、しかも監督。
これは見るしかない。ネタバレよりも先に。
そう決心して映画館に行ってきました。
今日はこの稀代の快作の感想を話していこうと思います。
ドラマ
シン・仮面ライダー、個人的にはかなり期待していました。
なぜならば、これまでの3作品とは打って変わり「ヒト対ヒト」の構図が如実に描かれるからです。
シン・ゴジラは巨大な災害に対してあらがう人の姿を描くdisaster系の映画。
シン・ウルトラマンは宇宙人へ人類が対抗するという側面ではあるが、主人公はほぼ宇宙人であり、また圧倒的な力へ対抗するという意味でもシン・ゴジラと趣は近い。
むろん、この二つは全く同じではないことは周知の事実だ。シン・ゴジラはゴジラという神の如き災害へ人類が英知で立ち向かう映画だが、シン・ウルトラマンは宇宙人との交流を描く側面があり、異文化に翻弄され、また主人公が人類を知る物語ともいえる。
これらの点で仮面ライダーは決定的に違う。
主人公も敵も、改造手術を施されてはいるが人間だ。敵の組織ももともとは人間から発せられた。
つまり、ドラマなのだ。
ちなみにドラマの語源はギリシア語の「dran(行動する)」から来ているらしい。なぜこれがdramaになったかは分からないが、俳優がacter(行動するもの)という意味からも、なんとなく由来が察せられる。
ドラマ自体は戯曲では喜劇でも悲劇でもないものをいうらしい。
なので災害系の物語も異星人との交流も等しくドラマと言っていい。
だが、自分としてはドラマは”人間が織りなす物語”と考えている。
等身大の人間同士が織りなす物語を教義のドラマとしてここでは語っていきたい。
この辺りはまたそのうち語り直してみたいですね。
あらすじ
そして唐突に始まるBGM。
バイクのエンジン音とトラックのカーチェイス。
この突然バットでフルスイングをぶち込まれるような情報量でシン・仮面ライダーは始まる。
こちらの理解とはお構いなしのバイクアクションとミニチュア特撮、そしてクモオーグの登場で一気に画面へと引き込まれる。
なんだなんだと思っているうちに緑川ルリ子(浜辺美波)がピンチなり……
「カキィーン!」という懐かしい金属音と仮面ライダーが現れる。
特撮に詳しくない自分でも見たことのある構図と空中ジャンプに、「あ、これはやばい映画だ!」と遅まきながら気付くのである。
そう、この映画を撮っているのはあの庵野なのだ。大学時代に自らウルトラマンになる、あの庵野だった。
更なる驚愕は仮面ライダーのパワーである。
PG12というがどうせと多寡をくくっていた。
次の瞬間には、命だったものが辺りに散らばっていた。
「あれ、アマゾンズ始まったか?」と思ったほどだ(仮面ライダーアマゾンズはアマゾンで配信されていた仮面ライダー。グロでダークな世界に定評あり)。
そら、数トンのパンチを喰らえば人間の頭蓋などザクロのように割れるが、それを思いっきり楽しく描いていた。
まさにフィクションでありながらどこまでもリアリティのある仮面ライダーの姿があった。
主人公本郷猛の戸惑いとは別に物語はどんどん加速していく。クモオーグとコウモリオーグを倒した本郷と緑川は行きずりながらも信頼を深めていく。
彼女の親友を倒し、そして彼女は自らの兄と相対する。
しかし、兄の力に打ち払われ、仮面ライダー二号に敗れる本郷。
ルリ子の奇策で一文字は解放されるがKKオーグによってルリ子は殺されてしまう。
失意の本郷は、それでも彼女の遺志を継ぎ、兄、仮面ライダー0号と対決する。
文字に起こせば王道の物語なのが今回の仮面ライダーである。
だが、それがいいのだ。
アクション
特撮である以上、アクションを外して語ることはできない。
一部、トンネルなどでの見ずらいシーンはあるものの、基本的には心地よい。
トンネルシーンの大量発生型相変異バッタオーグの、群体のようなバイクアクションやクモオーグとの戦闘、ハチオーグの超高速戦闘。
なにより、1号VS2号の定点バトルは二人の拮抗具合を端的に表している。
所々に使われる古典的な特撮アクションたちもまた、小粋な味わいで庵野のこだわりを感じる。
特に森山未來の前衛的特撮殺陣アクションは一見の価値あり。
普通の映画では味わえない、特撮のアクションがこれでもかと盛り込まれた一品です。
孤高、信頼、継承
こう言った特撮は子供のころはただひたすらに「かっこいい」と憧れてみていたものだ。
だが大人になって見返してみると、思ったよりもヘビーだったりする経験は多い。
自分にとっては「SEED」などだった。
いや、あれ久々に見返したらかなりグロくてビビったなあ……。
自分は仮面ライダーの世代ではないが、まさしくこの作品は「仮面ライダーというフィクションのリアリティ」を追いかけた作品と言える。
冒頭の衝撃的なアクションシーンがそれだろう。
真っ赤に染まる画面はフィクションの中でフィクションの存在が薄まった故の現象であった。
故に本郷は人間ではないことを如実に突き付けられる。
真っ赤に染まった両手と異形の相貌を目の前にして、彼は孤独になる。
それでも、彼は戦うことを決めた。
ただショッカーという巨悪に立ち向かうわけではない。
緑川博士から託された意思だけではなく。
自分の弱さと立ち向かうために、彼の父親を超えるために。
ヒーローとは力故に孤独になる。
人間を超えた力故に、誰かを抱きしめることができなくなるから。
だが、本郷はそれ以前から孤独であった。
父親の死は彼の中に「力」というものへの疑問を常に投げかけ続けていた。
「力」を手にした本郷は、まさに彼の父親と同じ立場となった。
人を殺せる力で誰かを助けることの罪深さを思い知ったのだ。
ついに彼はルリ子を助けるため、そして父親を超えるために力を振るう覚悟を得た。
彼の姿は「孤独」から「孤高」へと変わる。
一人ぼっちの彼には、覚悟という光が影を差していた。
孤高の彼のそばには常にルリ子がいる。
はじめこそ戦力としてしかカウントされていなかった本郷だったが、幾多の戦いを超えることで彼女の戦友となる。
友情とか愛情とか、そんな情ではない関係性が構築される。
ただ一方的に施されたり守られたり利用するものではない、対等な立場。
「信頼」を二人が繋いでいる。
そして、この物語は「継承」の物語なのである。
緑川博士とルリ子から本郷へ。
本郷から一文字へ。
彼らは皆、「孤高」であった。
だが「信頼」があった。
「ふたりで浴びる風は気持ちがいい」
マスクという象徴を通して、一文字は「孤高」に走っていく。
それは孤独ではない。
多くの人の「信頼」が彼を紡いでいる。
ヒーローはいつだって、誰かの正義なのだから。
そして感謝
この映画を見終わったときに感じたのは、溢れ出る感謝だった。
シン・ゴジラやシン・ウルトラマンなどにも通じるが、シン・仮面ライダーからはより一層強く感じた。
ただ良いものを作ろう、ただ自分が気持ちいいものを作ろう、ただ観客が喜ぶものを作ろう。
そういった雑念ではなく、フィルムからは一心に「仮面ライダー」へのリスペクトがにじみ出ていた。
ただ過去の踏襲ではない。
庵野が見た仮面ライダーという体験を映画にしたら、こう言う映画になるのだろうか。
はじめて見た衝撃をそのままに、己の血肉となった「仮面ライダー」という作品を自分から引きはがして、もう一度作り直した。
「きっとこういうものだった」
「いや、こうじゃない」
「ここが好きだったんだ」
そんな大人が過去を懐かしみ、周りの人々に感謝するような作品だった。
そういう意味ではこの映画は庵野監督のエゴがふんだんに込められているだろう。
合う合わないという面では苦手な人は出てもおかしくない。
もともと庵野監督自体、えぐみが強い人だからね。
万人にお勧めできる映画ではないけれど、「かつて仮面ライダーが好きだった」人にはお勧めできる映画だろう。
孤高、信頼、継承
そして感謝
シン・仮面ライダーは現代に返り咲いた、いつかのヒーローの映画なのだと私は思う。