『伊藤計劃』を語るということ~映画『虐殺器官』感想~
さて、見てきましたよ。
事前情報とかはあまり見ずの視聴でした。
映画館も、このタイトルと合って大盛況のようです。
伊藤計劃は死者の帝国映画を見てからドハマリしているので、もちろん楽しみでしたのだ!
ただ、下馬評的に賛否両論らしいというのは知っていたのですが。
では、感想なのですが、
「一本の映画として、独立した映画として見るなら、面白かった」
です。
映像の使い方、音楽に演出、声優さんの演技とかはよかったですよ。
アニメーションもいい感じです。途中で制作が途絶えたとは思えなかったです。
お話も分かり易いし、ちゃんとそれっぽいです。
しかし、
ですが、
けれど、
この映画は、不完全であり未完全であり、
「伊藤計劃」を描き切れていません。
そういう意味で、この映画は凡庸で平凡で汎用な、その程度の映画でしかありませんでした。
ツイッターでも書いたのですが、
原作の虐殺器官を読まない人、読む気がない人ならお勧めできます。
しかし、原作を知っている人、これから読もうとしている人にはお勧めできません。
したくありません。
これを見て、「これが『虐殺器官』なんだー」なんて思ってほしくないのです(めんどくさい彼女みたい
なので、虐殺器官の原作好きな人は、覚悟してみるべきだと、僕は思います。
と、いきなりなんかものすごく辛口なのですが、その訳はこれから書いていきます。
今回は本作のネタバレもそうなのですが、ハーモニーのネタバレや個人的な伊藤計劃観(なんだそりゃ)も含んだ、過激な感想ですのであしからず。
ていうか、これから先は「原作の虐殺器官」を読んだ人向けですねー
まずはじめに、そして改めて明言しておかなきゃいけないのは
「この映画は『伊藤計劃』を除いて観た場合、普通に面白い映画」であるということです。
シナリオの整合性とか、アニメーション、BGMや演技などはどれもアニメ映画としては良かったと思います。
まず、1500円(もしくは1800円)の価値はあります。
つまるところ、この映画は普通にいい映画なのです。途中で制作が頓挫しかけた、そんなデメリット抱えていながらも、完成にこぎつけた素晴らしい映画なのです。
多くの人が完成を待ち望んだ、期待の映画なのです。
その期待に、僕は「ある程度」応えられていると思います。
それは、クラヴィスたちに声が付いて動いたからであり、
それは、あの物語をスクリーンで見ることができたからであり、
それは、エンドロールを見ることができたからです。
だから、この映画は、ある程度の満足で見ることができます。
しかし、私はこの映画を見終えた時、確かに満足しながらも、「落胆」とその後に湧いた「怒り」を覚えました。
なぜ私は上記のことまで書いていながら満足していないのか。
なぜ、そんな落胆や怒りを覚えたのか。
それは、この映画がある一つの期待に応えられなかったからです。
その期待とは
「語ること」です。
いや、何言っているんだってなりますよね。
「あの映画、ちゃんと虐殺器官だったじゃねえか」って。「筋通ってたじゃないか」って。
「確かに、カットされたシーンとかあるけど、でも、虐殺言語とか、ジョンポールとの対比とか、ちゃんとできてたじゃねえか」って。
それらの反論は、確かにその通りです。
あの映画は、あの一本の中に置いて完結している。原作から削っておいて、なお成立させているからこそ、アニメ虐殺器官の素晴らしさはそこにある。
同時に、アニメ虐殺器官の欠点もそこにある。
そもそも、「語る」とはなにか。
この映画では、一体なにが「語られていない」のか。
そのために、何がこの映画を貶めているのか。
それらを考えなくては、私のこの映画を見た時の「落胆」とその後に抱いた「怒り」を、説明はできません。
それを「語らね」ば、アニメ虐殺器官の否定を行うことができません。
そして、アニメ虐殺器官を否定して、私はこの映画の感想とします。
伊藤計劃を特筆するならば、それは言わずもがな、そのスタイルである。
つまり、その小説は常に読者に訴えるように「語り」描かれている。
本を開いて、一文目を読み始めた瞬間、耳元にキャラクターが現れて、語り聞かし始めるのだ。
それは地獄のことであり、調和のことであり、死者のことであり、一匹の蛇のことであり、あるエージェントである。
彼らが、彼ら自身の、もしくは誰かの物語を語り聞かせる。その言葉たちが音を伴って耳に浸透するように、我々の心の奥深くへと入り込み、聞かせる。
彼らの苦悩、幸い、罪と罰、魂。対比と摩擦と葛藤で、読者という私を書き換えていくのだ。
観念的には、伊藤計劃の「語る」とは私たちへ強く訴えかける文調である。
しかし、具体的な「語る」はまた一つ、別の形を示す。
伊藤計劃の優れたる点のもう一つは、SFギミックを、それをただのギミックとしてではなく、その設定が浸透し社会となった環境に置いてさらに問題定義までに消化していることでもある。
虐殺器官であれば、監視社会における、プラハの監視の行き届かない人々であったりする。彼自身はこの点で、小島監督の「ポリスノーツ」で指摘している。伊藤計劃は、恐らく意図してSF設定の問題提議化、それも社会に浸透してそれが生活の一部になるまで浸透しなくては発生し得ない問題を顕在化させるのだ(これは恐らく、スターリングやギブスンなども同様であるが)。
そして、同時にその技術を用いて主人公たちの内面問題を切り込むのだ。虐殺であれば痛覚マスキングによる「罪の在処、殺意の在処」、ハーモニーでは「watch meによる監視からの脱出と閉塞感」を。
たしかに、伊藤計劃の考えるSF設定は素晴らしくリアリティがあり、妙に生々しく映る。しかしながら、彼の真に恐るべき点は、その設定をただの小道具ではなく、人間性を抉り出すために用いている点だ。それこそが、伊藤計劃の「語る」本質のもう一点である。
技術を用いて、主人公たちの人間性を明確に描いていく。切り刻んでいく。浮き彫りにし、裸にし、抉って、開放するのだ。
結局のところ、伊藤計劃の小説は社会的な問題(虐殺の感情の在処や監視社会の問題点、ハーモニーの生命至上主義)も取り扱っているが、物語的な中心はいつも主人公たちの生きた生々しい、土臭い感情なのだ。
その感情を、「語る」文法で読者に響かせ、あらゆる設定で「語る」のだ。
故に、彼の小説におけるSF設定は、ただSFであるだけでなく、個人を切り抜くためのツールでもある。
それは、クラヴィスが、母の安楽死を選んだことの答えを探し続ける物語である。
同時に、死者の国の夢を見て、その中に地獄を見出す物語でもある。
ジョン・ポールを追いながら、ルツィアに出会い、彼女に告解を求める物語でもある。
そして、痛覚マスキングとカウンセリングを受ける彼が、殺意の在処を知る物語である。
これらの物語が捻じれて一つの糸となったものが、虐殺器官であると、私は思う。
では、アニメ虐殺器官はどうだろうか。
この映画の始まりは、サラウェボの核、そしてジョンたちの不倫のシーンから始まる。
そして、次にクラヴィスの審問会が開かれるシーン。
その後はほぼ原作通りに話が進む。
一部を除いて。
改変があることを、私はすべて否定しない。アニメにはアニメの、小説には小説が得意とする表現技法があるからだ。小説のある部分を描こうとした時、それを少し変えればより優れた表現ができるのであれば、私はそれは行うべきだとおもう。
たとえば、アレックス。彼は冒頭になぜか興奮してしまい、クラヴィスに射殺されてしまう。その後に、タイトルが浮かび上がる。
この改変は、私はとてもいいと思った。このシーンで、私はアニメに一気に引き込まれていった。
しかしながら、重要となる改変はここではない。
この映画には、クラヴィスの母親のくだりと死者の国の夢がないのだ。
これらの欠損によって引き起こされるのは、この虐殺器官という物語における重要なファクター、罪の欠損である。
クラヴィスの罪は、母を殺してしまったこと。母の視線を感じていながら、母の死を選んだこと。痛覚マスキングのない状態で、自分の意思で決めた、唯一の殺人。
これだけが、彼を苛み、苦しめる罪なのだ。
この罪を抱くからこそ、彼はルツィアに告解を求める。彼女が償いを求めるように。
クラヴィスの抱いた罪こそ、彼がルツィアに執着する理由でもあるのだ。
しかしながら、この映画にはそれがない。まるで、スパイ映画におけるラブロマンスのような関係しか見えてこないのだ。
それはベつにいい。それはある種の醍醐味でもある。
しかしながら、それを欠損することは、クラヴィスが罪のない状態であるということは、彼が殺意の在処を疑問に思わないのと同義なのだ。文学青年だから、疑問に思うというのは、あまりにも説得力がない。彼が侵す殺人の全ては、マスキング下で行われているのだ。冒頭のアレックスの射殺だって、彼の罪には含まれない。
マスキング下にある殺人は、マスキングによる殺人なのだから、殺意の在処についての疑問は、完全に払拭はできないが、それでも弱いものとなる。ましてや罪などは生えてくる要素はない。なぜなら、彼は母親を殺していないのだから。
そして、死者の国の欠損は、これらよりも強い喪失はないけれども、この抽象性もまた、クラヴィスの精神描写として映ることができる。個人的にではあるが、このグロテスクの映像化を見てみたかった思いはある。
つまり、クラヴィスの母親の欠損、そして死者の国の欠損は彼の内面描写を大きく歪め、弱めてしまう。それどころか、重要なモチーフである「罪と罰」のうち、片方を失わせてしまうのだ。
それらが失ったこの映画は、クラヴィスが軍人として従いながら、恋した(ようにしか見えない)女性を追いかけて行くだけの物語に落ちてしまう。
そこには、もはや個人を深く抉るだけのギミックは存在しない。
彼が思い悩むのは、ジョン・ポールの言葉だけだ。彼のもたらす言葉だけが、映画に出てくるクラヴィスを考察できる。
そうして、抉るだけの素材の無くなったSFの考証や設定たちは、ただの小道具となってしまう。迫力のあるイントゥルードポッド、グロテスクな人工筋肉、ハイテクなオルタナ、光学迷彩。アクション。
画面の中で踊るこれらの設定は、ただのきらびやかな舞台装置でしかない。
主人公の深みの失せた虐殺器官は、ただのSFスパイアクションでしかない。
そこに、「語る」ことはない。
語ろうとすることはできれど、この映画は、「語っていない」のだ。
無論、釈明はできる。
この映画を、クラヴィスが審問会で話した内容だとすれば、合点がいく。
ジョンポールにまつわる話をクラヴィスが延々と話した映画だとすれば、彼個人の話である、母親と死者の国のことは自然と欠落する。
しかし、それならばなぜ、この映画は全編で「クラヴィスが語る」というスタンスにしなかったのか。
述懐であったにせよ、審問会での発言であったにせよ、それにしてはクラヴィスの語る力が弱い映画なのだ。
モノローグはあまりない。かといって、映像の中から彼を深く読み解くようなシーンは少ない。
この映画を見て、僕が感じた怒りは、「この映画を作った監督は、虐殺器官の何を映像として撮りたかったのだろうか」という怒りだった。
ただのSF映画として、シナリオを追っかけるだけなら、なるほど、これ程すっきりと納まり、完成された映画は無かろう。
しかしながら、それはただのSFだ。ただの映画だ。
これは、「project ITO」の映画ではなかったのか。
僕は、いや、きっと僕たちは、この映画の中で生き潜む「伊藤計劃」が見たかったんだ。
「伊藤計劃」を果たしてどう「語る」のかが見たかったんだ。
ただ、映像にするんじゃない。
屍者の帝国のように、魂という新しいモチーフを加えて描くのか。
ハーモニーのように、トァンの感情を見直して描いて見せるのか。
それが楽しみだったはずだ。
これでは、あべこべだ。
物語を時間内に収めるために、物語を殺す。
2時間のために、「語る」ことが無に帰したのだ。
ハーモニーの映画、そのラストに僕はすごく感動した。
原作では復讐を選んだトァンが、愛のためにミァハを殺す。あのシーンの美しさと絶頂。
まさに、原作のある映画に許された、素晴らしい最後だった。賛否はあるが、その賛否はこのラストへの意見に他ならないだろう。
しかし、今回はどうだ。
私は、この映画の中に「伊藤計劃」の語りを聞くことはできなかった。
ただ、「虐殺器官」を映画にしたというだけにしか見えなかった。
正直に言って、期待外れである。
残念だった。
果たして、この映画の監督は、何が楽しくて、何を求めて、何が撮りたくて、
この「語られない」虐殺器官を作ったのだろうか。
作家論を持ち出すのはナンセンスであると解っていても、どうしても、考えてしまう。
何かの作品を見た時、一番口惜しいのは「私なら、もっともっと、面白くしてやれたのに」という感想を抱いてしまった瞬間だ。
そんなふうに思った時から、その作品は呪われてしまう。
未来永劫、一歩足らなかった作品として。
アニメ虐殺器官はクラヴィスが語る映画という体ならば、ある程度の納得は得られる。しかしながら、それでもなお、この映画には足らないものが多すぎた。
まるで、シナリオを収めるために、削りに削ってしまった、時計のようで。
削られた部品の中に、大切な装飾があったとは気づかずに。
もしもこの映画のラストに、混沌に堕ちたアメリカが描かれていたのなら、その中でピザを食べるクラヴィスが見れたのなら、僕は少しは救われただろう。
もしくは、こんなふうに怒りを覚えさせる、「虐殺の文法」をあの映画に忍ばせていたのだとしたら、僕の負けだ。
少なくとも、そうであると祈ろう。
以上が、アニメ虐殺器官への批評である。
あの映画には、伊藤計劃はいなかった。
そして、「語る」こともされていなかった。
アニメ化というのは難しいということを、また思い出させてくれた(これについてはまた今度)。
悪い映画じゃなかったけど、期待以上ではなかった。それだけの話です。
では、今回はこれにて。
P.S.
最後、原作のモノローグについての言及を書き忘れていたので。
原作は言わずもがな、混沌に落とされたアメリカの風景をバックに終えることになります。
これは、ジョンやアルフレッドが求めたモノの真逆が描かれたシーンであり、後にハーモニーへと繋がる伏線でもあり、この作品最後のカタルシスを描かれた場面である。
他の人の感想を読んだけれど、多くの原作を読んだ人はやはり、このカットがないことに無念を抱いていたようだ。
僕もその一人。この一場面がないのが残念だった。
この場面がカットされた理由は、審問会での発言であるという理由である程度納得できる。さらに、その後何が起こったのかを想像させる余韻ができる。
できるのだが、それが何の意味があるのか。
あの混沌を、映像で見たかったのだ。あの映画で、映像にしてだ。
原作映画化、映像化の楽しみの一つは、やはり、「このシーンがどう映像化されるか」にかかるはずだ。
その点では、死者の国の映像化も楽しみだった。ていうか、それがこの虐殺器官の醍醐味だろう?
目の前の戦争はマスキングで均質化され、グロテスクでありながら無感情であるのに対して、脳内に浮かび上がる死者の国は、それ以上のカオスとグロテスクでクラヴィスに襲い掛かる。
そして、自室のクラヴィスに対して、地獄に落とされた外の世界というアメリカの対比。
これらの映像化が楽しみであり、虐殺器官のある種代名詞だったシーンたちだろうに。
これらを欠いたこの映画は、本当に何が楽しくて映像化したのかが、僕にはわからなかった。
映画として見たら楽しかったが、原作を期待するべきではなかった。
そういう落としどころに持って行くしかないのだろう。
残念無念。