しんどさはどこから来るのだろうか ~「なんにもない、なんでもない」感想~
さて、すっかり秋になってきましたね。
食欲の秋、運動の秋。
いろんなことをするにはいい季節です。
そして、自分にはもっぱら「読書の秋」。
というわけで、今日はジャンププラスで読み切りされていた「なんにもない、なんでもない」の感想を書いていきます。
普通に読んでも面白いのですが、精神科医として見たときにかなりうなるものがありました。
具体的には、主人公のしんどさと精神科について。
この辺りを軸に、この漫画の面白さを語ってみたいと思います。
以下、ネタバレ含有。
あらすじ
主人公「歌凛」は特に何かあったわけではなく、「なんにもなく」て「しんどいという自分が何よりしんどい」日々を過ごしていた。
不登校となった彼女はとある老人と交流を持つ。
その老人との交流の中、しんどさについて、死についてを通して成長していくというお話である。
普通に感想
まず、くっきりとした線とテンポ良いこまわり、そしてそれらをまとめる作画力が感じられました。
派手なアクションなどがない分、構図などの力が存分に出るが、決して嫌味なく、心地よく読ませてくれます。
そんな絵の中で、心地のいい閉塞感で紡がれる少女の成長の物語を描いています。
老人との出会いも決して劇的ではなく、素朴な中で進んでいく。
どこが精神科らしいか
さて本題。
この漫画のどこが精神科らしいか。
それは不登校です。
不登校は現代精神科において決して避けることのできない主訴の一つです。
そして、不登校の理由とはたいていの場合、「いじめはなかった」などはっきりしないことも多々あります。
その中には、ただ漠然と、それこそ本作のような「生きづらさ」が根底にあるケースも少なくありません。
ただ、多くの場合にはその生きづらさには理由があったりしますが、それは「読み切り」サイズの中では決して描くことができない物ではあります。
あやふやな「生きづらさ」の中、それでも「生きづらさ」「息苦しさ」は核としてそこにあるのです。
苦しみに理由はあるのか
本作において、自分の中で非常にぶっ刺さった言葉があります。
「バカみたいな幸福を享受してくれよクソ脳みそ」
まさに、この言葉が象徴ともいえます。
自分が恵まれていることも、幸福なのも分かっている。
けれども、苦しみはぬぐえない。
そう悶え、彼女はベッドにうずくまります。
一方でこの漫画では分かりやすいしんどい人も出てきます。
その中で浮かび上がるのは
『苦しみには「わかるような何か」がないといけないのか』
という命題です。
苦しみの比べ合い
現代ではSNSなどで容易に他人が見えてしまい、その中で苦しみを比べ合う。
また一部の人は空想の「普通の人」を作り上げ、空想と自分を比べてしまう。
そうやって苦しみを比べ合い、証明しようとしてしまう。
余談① 不登校は精神医学の問題か
Twitter(新X)の精神・心理学クラスターでも話題になります。
「不登校」は精神医学の問題なのでしょうか
この問題を真面目に考えると「精神医学」とは何か、「精神疾患」とはなにかを定義しなくてはならないのですがね……。
結論だけを言えば、「精神科」の問題である、と私は考えます。
第一に、不登校には精神科疾患が絡むことが多いから。
発達障害はもとより、うつ、統合失調症などなどが鑑別に上がります。
これらのアセスメントは精神医学でないとできません。
第二に、現在の学校機能で不登校のアセスメントをすることは困難です
そもそも学校から出ることが、先生には困難なのです。
これは学校というシステムの限界ともいえます。
先生方は悪くないですし、皆さん頑張っていらっしゃることを断っておきます。
第三に、「苦しさ」を抱えられる場所が少なすぎる。
その限りある一つが精神科、だと自分は考えています。
現状「不登校」という問題を抱えられるのが精神科くらい、というものでしょうか。
この辺りはまたどこかで話してみたいです。
余談② 「暇と退屈の倫理学」から読む
もう完全に本筋とは違いますが、国分巧一朗先生の「暇と退屈の倫理学」からこの物語を読むこともできそうだな―と書いてて思いました。
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それはまず、彼女の「しんどさ」「苦しみ」を「退屈」と読み替えることから始めます。
すると、主人公は退屈の第3形式にあるのではないかなと思いました。
物語の中で、彼女は退屈(=苦しさ)を紛らわせるなにかを探す。
けれどそんなものはないと気付き、現実の中で生きる「第2形式」へ移ろったのではないか、という考察です。