もるげん3分前

もるげんれえてとそのサークル「Horizont」のスペース。宣伝の他に呼んだ本や映画の感想、最近のこととかを書いていきます。pixiv→http://www.pixiv.net/member.php?id=270447、ツイッター→https://twitter.com/morghenrate

ベディヴィエールは何処へ征くのか ~映画FGO キャメロット感想~

だいぶ寒くなってきましたが、皆様元気にお過ごしですかね。

私は最近、キャンプを始めたらこれにはまっています。そのうち、キャンプについての記事も書いていきます。

ところで、ようやく映画館も活気を取り戻してきましたね。

某鬼狩り映画が物凄い勢いだ。実際にすごくいい映画でしたね。

これについても色々語りたいことはありますが、それはまたの機会に。

他にも色々な映画も目白押しですね。個人的にはワンダーウーマン1984モンスターハンターが気になっています。洋画がやや不作気味なのがちょっと物足りないですが。

あと、夏への扉。自分はこの小説がすごく好きなのでどんなふうに改あ……改編されているか、一応見てみようと思います。

そんな中で自分はFate/Grand orderの映画「神聖円卓領域キャメロット」を見てきました。

今年の中では興味を持っていた映画の一つです。ゲームも楽しいかったので、これが映画化するとなるとやはりチェックしておりました。

今日はこれの感想を考えていきます。

 

総評

まず、全体としての感想ですけど、いい映画でした。

声優陣はもとより、アニメーションはいい、映画館で見るだけの価値はある映画でした。

色々な見方はありますが、アーラシュやベディたちの活躍を生き生きと描かれ、立香たちの旅路を映し出していました。

確かに所々の端折りやリストラは見られましたが、一時間半の枠に収めるには仕方ない範囲かなと。例えば百貌のハサンと俵のは出てきませんが、全体のキャラクターの中から誰を削るかとなればこの二人になるのは、ある意味順当かもしれないと思います。

限られた時間の中で描くには、どうしても描かないものを決めなくてはならない、というのは創作するにあたりいつも浮かび上がる課題ですな。自分もよく痛感する次第です。

 

ただまあ、正直言って、個人の感想としては余りにも粗雑な作りすぎるのが目立ちます。

ぶっちゃけ、後編を観に行くかどうか迷っているくらいです。

自分がこの映画を見て特に感じた”粗雑”なところは「殺陣」「構成」「脚本」でした

まあ、小説畑の人間なので脚本周りの評価が厳しくなるのは常なんですが、なんというか、これだけのいいアニメーションでありながら、それに似合わぬ粗末なストーリーなのです。

では、ここについてさらに掘り下げていきます。

 

殺陣

まず始めに断っておくんですが、自分はアニメーションについては鑑賞する程度の知識しか持ち合わせていないので、例えばアニメにおける技術的な話とか門外漢です。だから、これから話すのはあくまで一個人の感想です(まあ、一個人の感想なのは後も先も同じなのですが)。

戦闘シーンなのですが、バビロニアのようにグリグリ動くのかなと思っていたら、なんというか全体的にのんびりとした動きなのです。剣の一振りが確かに重々しく感じられるのですが、なんというか、「これが英霊の、それも円卓の戦いか?」みたいな。

その点については、殺陣やアクションはufotableが一つ二つ頭が飛び抜けているというのもあるのですが、しかし、剣戟アクションとして「鬼滅」と比べたら迫力も勢いもまるで足りない。

何と言ってもギフテッド・ガウェイン。あの僕らを苦しめた彼はどこに行った?確かに映画では強かったけれど、あの程度の強さだったのかと思ってしまいました。エウリュアレしまくったあの日々が懐かしい……。

単純なアクションもそうですが、戦闘の構成自体が盛り上がらない。ただ平々凡々と戦っている姿だけが映って、そこにどんな駆け引きがあるのか、二人がどんな智略謀略を巡らせているのかが見えてこないんですよ。はっきり言えば、どの戦闘もただ、戦うキャラの姿だけを見せて、手汗を握るような迫るものを感じられません。

この点については後々も語りますが、アクションのアニメーション自体もですが、戦闘の内容自体も薄味で、観ていてダレてしまうんですよね。

物語の細かい、さらに細部の起承転結が疎かになってしまった結果、このゴムを噛むような戦闘シーンが出来たのかなって思っています。

 

構成

構成とは、本来シリーズ物の作品で脚本を取り纏める「脚本の監督」のような立ち位置ですが、ここでは構成を「物語全体を如何に尺のうちに纏めるか」と定義します。

つまり、原作FGOにおける第6部「神聖円卓領域キャメロット」という物語を、どのように分割し、どのように時間を割り振るか、の作業のことを言いたいのです。ここではさらに、物語をどのように描いていくか、どのような掛け合いをするかと深めていくのを脚本とします。まあ、プロットと置き換えてもいいかもしれませんね。

ところで、プロットというのは草案、下書きのようなもので、それを直接見ていないのにプロットについて語れるのか、と考えるかもしれません。

結論から言えば、全てではないですが大凡を知ることはできると思います。少なくとも、その熟成度を推し量ることはできます。

なぜならば、これだけの巨大な物語を作るには全体のレシピが必要になります。高級フランス料理店に行き、その料理を見て食べれば、どれだけの手間暇をこさえて調理されたかを感じることができます。このとき感じた「手間暇への想像」こそが、プロットを想像する手がかりになります。

さて、何らかの原作がありそれが映像化するにあたって最大の問題となるのが「何を切り捨てるか」「何を付け足すか」「何を変えるか」だと思います。情報媒体の変化は表現に直接影響します。小説が得意な表現がそのままアニメでも得意なわけではなく、漫画の不得手はアニメの得手であることもあります。この情報媒体の変化に伴って原作を削ったり付加したり改変しなくてはならないのです。……少なくとも自分はそう思っています。

そもそもキャメロット自体、物語が非常に膨大で巨大です。それを前後編3時間に納めねばならないのであれば削られるものがあってしかるべきです。キャラやシナリオのリストラはその点において仕方ないものです。詰めに詰め込んで物語が破綻しては元も子もないです。

ただし、切り捨てるのは良いですが本当に大切なのは「何を見せたいのか」です。
たいていの名作や優れた作品は読んでいれば「何を見せたいか」がはっきりしています。読んでいるうちに自然とそれが浮かび上がり、心の内で描かれていくのです。

故に、自分も気をつけていることですが、「何を見せたいか」があやふやになってしまうと創っている側も観ている側も何をしたいのか、何を描きたいのか、何を見せられているのかがわからなくなっていくのです。

映画キャメロットにおける最大の失敗は、構成レベルでも脚本レベルでも、この「何を見せたいのか」が分からなくなっていることだと思います。

ここまで読んで、こんな風に思った方もいるのではないですか?

 

「いや、ベディヴィエールの話を見せたいんだろ」と。

では、この映画を見た人に伺いたいのですが、

この映画の主人公は、誰ですか?

この映画は誰の旅ですか?

この映画が、私たちに訴えかけてきたものは何ですか?

 

僕はこの映画を見たときに今の質問にちゃんと答えられる自信がないです。

それが映画キャメロットの限界でもあり、最大の批判点だと考えます。

 

脚本

結論を言ってしまえば、映画キャメロットは「原作の表面だけを映像化した」作品に過ぎないのです。

例えば、新たにアーラシュとの絡みのシーンが追加されましたが、正直ワンポイント的な立ち位置、単純な状況説明程度の意味合いしかなく、全体の物語における、あるいはアーラシュの物語における付加的価値はほとんどないのです。ワンプレート料理にオマケのポテトサラダがあるみたいで、調和というものが見出だされえないのです。

移動シーンの多さも物語のテンポを悪くする一側面でもありました。移動シーンで風景を映像として流すことは、その美しさもあり一概に悪いものではないのですが、如何せん多すぎる。映画の1/3は移動シーンだったのではないかと錯覚するほどです。

合わせてセリフの少なさも相まって、我々はどんどん置き去りにされていきます。キャラクターたちのセリフのほとんどが状況の説明に費やされ、彼らの心情を察するに足る情報も得られないのです。浅い上辺だけの掛け合いを延々と見せられても、揺れるものもないのです。

結局、この映画は誰のための映画だったのか。ベディのためかといえば、その中心にいるはずの彼は物語の後半では一人の登場人物に成り果て、立香も主人公かといえば何とも宙ぶらりんとしている。アーラシュは前半の鍵を握っていながら、我々が感情移入するには余りにも弱々しい立ち回りなのだ。

この監督、脚本に一つ質問したいのは、ただ「誰の物語か」ということです。

たぶん、答えられないんじゃないかなあと、僕は思っています。

何を見せないかに終始した挙句、何を見せたいかが分からなくなってしまい、とりあえず原作通りにキャラクターを動かしただけの映像となったのが、この映画なのではないかと僕は感じました。

正直、間桐桜強火系過激派監督須藤の爪の垢でも飲ませれば、もっと面白くなったろうなと思います。

 

シナリオ周りが余りにもお粗末だったので、なんかめちゃくちゃに叩いてしまった感じですが、ベディやアーラシュが動くという点ではいい映画です。特に彼らのことをよく知っていれば、映画内で描かれなかった心情を補えれば楽しめると思います。

逆に、この映画が新規置いてけぼりという批判がありますが、僕は「そんなの何を今更」と思ってます。鬼滅もそうですが、連続しているものが初心者を放置するのは当たり前です。そこまで構っているほど尺はないです。

ただ、情報が欠落し過ぎて、キャラたちの会話を聞いていても感情が全然深まらないのです。物語を知っていても、目の前で繰り広げられるキャラクターたちの会話が唐突で脈絡もない会話となってしまっているのです。

前述もしましたが、上っ面だけの浅い会話しかないなあと。言葉の掛け合い、先頭の掛け合いの甘さ、あるいは細かな起承転結のないなだらかな物語である故の、鑑賞している側の感情の置いてけぼりが強いのです。

どんなに設定が矛盾していても、感情が矛盾していなければよい。脚本家の小林靖子さんがそんなことを言っていたと思いますが、本当にそうだと思います。

そして、この感情とは登場人物だけでなく、鑑賞する人の感情も同様だと思います。

物語の波に、登場人物の感情に共感し触れ、高揚し絶望する。

その動きこそが感動ではないかなって。

結局、見ている人の感情を動かしきれてない映画だなあ、とそう思うのです。

 

余談になりますが、原作ありきの映像化は本当に難しいと思います。

原作というネタがある一方でそれが枷になる。話のリストラ、追加、改変も下手をすれば批判の的となる。

そういう中で作ることは本当にしんどいと思います。

ですが、一方で改変したりしても批判されず、受け入れられる作品も多くあります。その中で共通する一つのことは、作り手の原作への深い理解です。

間桐桜指定暴力団須藤監督の作るそれは、まさに「愛」の域までに達した理解です。これは極端な例ですが原作への理解なく映像化はできないと思います。

では、キャメロットに理解がないかといえばそうではなく、単純に深度の問題です。

何かを深く理解するのは難しい。その中で、作り手たちは試行錯誤しているのだと、思っています。

 

自分も一創作者として、この感想を書いていると色々と思うところはあります。

つまり、表現が独りよがりになっていないか。ちゃんと読者はついて来れているのだろうか。

もしくは、この物語は何の物語だろうか。起承転結はあるか。感情の起伏は乗っているだろうか。

面白くない映画や作品を見たときのほうが、もしかしたら収穫するもの、得られるものは大きいのかもしれません。

今、この作品に当てはめている批評を自分の書いているものに向けてみる。そういう視点で見てみると、色々と気付くものがあるかもしれません。

 

ただ、金がある中でなんともまあ、お粗末な映画というか。

高級食材で作った地元の定食屋さんのご飯が出てきた気持ちになったのが私の感想です。

 

一応、後編も見ますが、あまり期待はしていません。

ワンダーウーマンキングスマンが楽しみに生きています。

映画館はコロナ対策もバッチリ。みんなも一人映画館を楽しもう!