演繹と帰納ってどっちだ?
いま、マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」を読んでまして。
十数年前にこの本が流行っていた時は「流行ものかあ」と敬遠しておりました。
しかし読んでみるとなんという名著なことか。
読み終わったら書評を書こうとは思います。
で、この本の中に出てきたカント哲学のあたりで自分は感銘に撃たれたわけで。
このカントの哲学について彼女と話しているおり、
「彼のすごいところはこれまでの経験哲学を批判しているところ。帰納的に道徳を証明しようとしたところなんだ」
と自分が言ったんですよ。
そしたら
「いや、それ演繹では?」
あれ、どっちがどっちだっけ?
「でも、N=N+1という仮定から導き出すのが帰納法では?」
と返しながらも自分の中では混乱が続いておりました。
まあ、結局自分が間違っていたのですが。
今日は演繹と帰納、どっちがどっちかを忘れないようにブログにまとめておきます。
「具体と抽象」の続きは現在書いているところなのですが、もうちょいかかりそうですので先にこっちをば。
まず、演繹について。
演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。
wikipediaより(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E7%B9%B9)
もはや前提として成立している物事、事象から論理を推定するやり方ですね。
有名なのは三段論法が有名ですね。
前提1:人は死ぬ
前提2:ソクラテスは人である
結論:ソクラテスは死ぬ
「人は死ぬ」という前提は間違いなく真実であり、ゆるぎない。また「ソクラテスは人」ということも真実であり、これらを組み合わせて「ソクラテスは死ぬ」という結論は生み出される。
つまり、”おおよそ全てに通じるルールをある事象に適応させてどのような結果が得られること”、を求めることが演繹的な推論です。
一方で帰納について。
帰納(きのう、英: Induction、希: επαγωγή(エパゴーゲー))とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。
wikipediaより(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D)
つまり、いろいろな植物を集めてきて、それ全てに「種子を作る」という事実がそろっているならば、「植物とは種子を作る」という結論を導き出すやり方です。
多くの事象から一般化できる結論を求める推論法です。
このやり方は自分にとって一番馴染みある方法で、自然科学や医療でよく用いられるやり方ですね。
大量のN(=事象)を準備して、そこから結論を導き出す。
臨床試験とかもこれですね。
病気Aの患者さんたち(=事象)に薬Bが効いた、だから病気Aには薬Bが効く。
と導き出します。
一方で演繹は臨床的なやり方ですね。
ある臨床試験Aでは「病気Aに薬Bが効く」という前提がある。
患者Cは病気Aである(=前提)。
故に患者Cには薬Bが効く(=結論)。
また、演繹的な思考は哲学や法学で用いられることもあります。
とりあえず、自分が現状で理解しているのはここまでですね。
ちなみに冒頭の数学的帰納法、さきほどの帰納法の説明のところで解説しようかなと思ったのですが、どうやら「数学的帰納法」は「演繹法」らしいです。
いやどういうことやねん。
なんだこの、わけわからん命名は。
ちょっと調べただけでは理解できなかったので、どこかで調べてみたいところ。
今後、勉強したい学問に論理学が増えましたとさ。
あとカントの哲学については絶対に「純粋理性批判」を近々読みますのでその時に。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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