とりあえず「書」いてみるということ
今日はブログを書く日。
何か書こうかなーとか思ってたけど
マジでネタがない。
最近何か新しく映画とか見たわけでもないし。
小説も今読んでいる最中だし(夏への扉)。しかも前に読んだ奴。
仕事絡みで面白いこともないし。
と、何かなくても月に2回はブログは更新するのが目標。
自分の中で今日はその定例日(隔週金曜日)なので、何か書きたい。
とりあえず何か適当にうだうだ書いていれば何か案が浮かぶだろうと思ったのだが、何も浮かばない。
このまま多分グダグダ書き進めていくと思うので、いったんここで区切るのだよ。
さて、今日というブログにおいていまだに方針が定まらずにこうやって書き進めているのは、果たして一体どんな結末になるのやら。
ていうか、個人的には何かを「書く」時には書き始めるときにすでに無意識の中で「構成」を大凡は完成させている。
つまり、自分が筆を手に取り、文字を書き連ね始めた瞬間には、筆を執るに足る十分な「理由」もしくは「目的」があるわけで、その目的のために書こうと思い立ったら、その時には頭の中に「目的のことを伝えるには果たして、どのような文章展開にすればよいのだろうか」ということを計算し始め、一行目を書く瞬間には、もるげんの頭脳にはその文章の設計図が描かれているのだ。
これはどんなことでもそうしているなあ、と感じてきた。授業でノートをとるときだったり、こうやってブログを書く時であったり。日々のカルテを書くときだったり、そしてもちろん小説を書く時も。
ただ、往々にしてその設計図はふんわりと雰囲気でしか描かれていないものだから細かいところの書き込みがないのだ。つまり、その設計図は建物の鉄筋は描かれているがコンクリートはまだ反映されていない。
だから書いている間に「お、ここにコンクリートを書き足してみよう」とやってしまえば、気が付けば妙なところに新しい柱が立っていたりするものだ。もしくは、コンクリートを付け足さねばならに鉄筋がもろに出ていたり、ひどいときには鉄筋を、何を血迷ったのか切り取ってしまったりするのだ。
ブログなどでは映画の感想を何の考えなしに書き始めていたら、「これを言いたい!」というフレーズを使えずに終わってしまうことがあったりした。または小説などで妙なところに力を割いたりしてしまい、おかしな起伏が出来上がってしまうこともあるのだ。
なので、ここ最近(小説においては程度はあれど同人活動を始めたころから、ブログなどは本当に最近だが)、何かを書く時にはそれが長文(1000字くらい)を超えるなら、なんとなくの下書きを書くようにしている。
全体の流れを「目次」のように、各章で中心となるテーマで区切り、その後そこに肉を付け足しながら頭から書いていく、という寸法だ。小説は細かく区切ったりなどの違いはあれど、自分が文字を書く時はこの方法をとっている。
結局、何を書こうかなあと迷っている間に書くことについて書いていたな。
なんか哲学的ですらある(ではない)。
今まで小説を技法として学んでこなかった(我流でやってきた)ので、これはいい機会と小説の技法について学ぶのもよいだろうなあ。確か、家にそういう本があったはず。
そろそろ夏休みとかもあるので、今年はろくに旅行とかには行けなさそうなので活字に溺れる夏もよいだろう。
皆様、くれぐれも熱中症に気を付けて。定期的な水分補給と塩分補給、そして体の冷却を。
財布も涼しくなるんだよね、夏は。