もるげん3分前

もるげんれえてとそのサークル「Horizont」のスペース。宣伝の他に呼んだ本や映画の感想、最近のこととかを書いていきます。pixiv→http://www.pixiv.net/member.php?id=270447、ツイッター→https://twitter.com/morghenrate

安楽死についての一考察

梅雨が長引いていますねえ。
洗濯物を外干しできないことは、体が押し込められるようなフラストレーションにも似ています。
久々に晴天の空を見上げてみたいもの。
でも、そんな時期になれば今度は「あつぅい……」と茹だるでしょうね。
暑い夏をスッキリ過ごすための料理も考え始めなきゃ。
 
そんなことを考えながら、コロナが増えたり土砂災害が酷かったり有名俳優が亡くなったり中国と米国は緊張関係になっていったり十連ガチャは爆死する、見るに堪えないニュースばかりで辟易としながら、どこかで無関係を装っていたりしながら。
そうしてふと、ニュースに触れていたらとある記事に目が止まりました。
 
医師がALSの患者を嘱託殺人した
 
このニュースはその後、容疑者の一人が不正に医師免許取得していた可能性が浮上して別の意味でも話題になっていますが、そのニュースが出た時にも医療クラスターの中で話題になりました。   
つまり、安楽死問題に再び火をつけることになったわけで。
安楽死問題は森鴎外の「高瀬舟」でもひとつの問題定義として扱われ、医療漫画の先駆けであるブラックジャックでは「ドクターキリコ」という積極的に安楽死を行う医師がいたりもします。
つまるとこと、「命を救う」という医師の責務は裏返せば、その技術には限界があり「救えない命」の存在をどうしても痛感せざるを得ないのです。医療技術にはまだ救えぬ領域が確として存在し、医師である以上そこにはいつかどこかで立ち会わざるを得ないと思っています。
そして、その「救えない命」に対してどう向き合うかのひとつの解決が「安楽死」や「尊厳死」の存在です。
 
ちょうどいい機会なので、自分の考え方の整理も兼ねて以前、この安楽死について行った自分の中の思考実験をまとめてみようかなと思います。

まず、私個人としては安楽死は許容すべきだと思っています。

これは私が人間の人間たる最も根本にあるものは現在のところ「自己決定権」であるという考えに根ざしています(これから権利の話をするけれども、私自身は法律の専門家ではないしこの手の分野は深く勉強していないから、すこしゆるく考えて欲しいな。無論、批判はしてもいいのよ)。
人間は自分の振る舞い、在り方、未来を自らの意思で選ぶ権利がある。その権利があるからこそ、さまざまな権利の所有が認められる。思想、学問、住居、教育、職業、財産、そしてーー生存。
これらの権利が保証され、行使が認められている。ならば、それは逆にその権利を放棄することを認めることにもつながる。
生存権という生きることを認める権利があるのであれば、その権利を放棄し生存を諦めることもまた、権利の内にあると私は思うのだ。もし生きることを認めるが生きないことを認めないのであれば、それはただの「生存義務」である。まあ、生存権の放棄そのものがつまり死というわけではない。生存権日本国憲法上は最低限度の生活を送ることを保証することでしかない。ただ、ここでは広く「生きる権利」と定義しておきたい。
なので、私としては「生きる権利」が存在する時点で「生きない権利≒死ぬ権利」が同時に発生すると考える。権利とは力を持った道具のようなものでそれを手にするかどうかの問題でしかなく、権利を手にすることで「生きる」のであれば、道具を手放して発生する対偶もまた、権利である。そして、その手にするか否かを決めることこそが人に許された最初にして最後の権利であるとも、私は考える。
もっと純粋な話にするなら、死ぬときくらい自分で決めさせてくれ、と言うのが簡単な理由でもある。
 
余談ではあるが、臨床をやっていると急変時に心臓マッサージをするかどうかを聞く場面は往往にしてある。あるいは病気の予後などについて説明することも多い。だが、一部の医師はそれを本人抜きで行い家族に選択を迫る。研修医として上級医のそんな姿勢を見ていると、勝手に決められてしまう患者も、決めることを迫られる家族も、なんとも不憫でならないと歯噛みしたものだった。さりとて研修医である自分にそんなことを物申す勇気などなく、流れに身をまかせるほかなかった。今は自分で診療するとき、たとえ認知症でもなるべく本人も一緒に説明することを心がけるのは、こういう経験があるからだ。
 
こんな考えをもって安楽死について自分は賛成の立場ではあるのだが、じゃあ、これを一般社会に導入することはできるのだろうか。この日本社会に安楽死というシステムは導入できるのか、という点が気になった
なので、実際に日本で導入するとしたらどうなるのかな、ということを以前、思考実験してみたのだった。
これから書くことはその時に考え、ふとある問題にぶち当たり、以降長らく自分の中での安楽死で解決できない問題として鎮座している。この問題のために、自分は安楽死について、賛成はするけれど導入を躊躇する妙な考えを持つに至ったのだ。
 
実験するにあたりいくつかの前提と原則は必要である。様々な考えがあるが、ある程度土俵と共通認識がなければ風呂敷が無限に広がってしまうからね。
それを下記のように定義した。
 
1、死は権利である。権利は万人に開かれなくてはならない。
2、権利は自己決定によって行われなくてはならない。
3、想定するのは現代日本社会の日本国籍、つまり日本人のみである。
4、安楽死導入に対するシステムそのものは憲法法律的な制約を受けないものとする安楽死をする当人やそのほかの社会については現行の法の下にある(現実に導入するなら矛盾、衝突する法律の変更、導入が必要なので。あと自分が詳しくないから)
5、不可逆よりも可逆を優先とする(不可逆の選択は後戻りできないが可逆であれば再度検討できる)。
 
さて、では実際に安楽死のシステムを導入するとなると、まあ最大の問題は「どこまでを許容しどこまでをその権利の範囲外とするか」という問題である。
現行稼働している安楽死のシステムなどはなんらかの疾患の終末期患者が主となる。これは考えやすい。なぜなら、その病状では堪え難いさまざまな苦痛が存在しているからである。その苦痛から逃れるために、生存を放棄し死を選ぶ。
だが、ここでは「病苦」には囚われないで思考を進める。原則1にあるように、権利は万人に開かれている。なら、不治の患者だけにその扉を開くのは不公平と言えるだろう。この世には、病以外にもさまざまな苦痛、死を望むまだ見ぬ理由にがある。
一方で、なんらかの疾患によって安楽死を望むのであれば、それは原則2に反する。うつ病統合失調症などの精神疾患でその症状を訴えるのであれば、この安楽死の要件には入らない。なぜなら、彼らの死の希求は疾患によって動かされているからである。一方でガンなどの苦痛によって安楽死を望むのは許容される。これはガンによって死にたいのではなく、ガンの苦痛によって死を望むからである(この辺りは精神医学的な希死念慮の観点がある)。ただし、こういった疾患の場合にはちゃんとした治療を終えた上で、なおかつ緩和治療も受けて可能な限り苦痛を取り除いた上で判断しなければならない。原則5に反するからである。それは、先ほどの精神疾患にも当てはまるし、そのほかの理由、例えば財産的な理由であったり交友関係の理由であったりにしても然るべきである。様々な相談を受け、他の解決策がないと判断されなければならない。
 
システムを構築する上では原則5の観点は必須であり、それだけでもシステムを作る意味はある。実際に安楽死する人がいなくとも、安楽死をしたいと思うほどに困っている人たちを見つけ、適切な相談窓口へ案内することができるからである。
ところで、この対処についてではあるが、ここでは「現実性」の制限を置かねばならないだろう。ある悩みに対して行政サービスや医療機関へのアクセスを含めた様々な手法を検討されるべきではあるが、一方で当人の置かれた状況や条件内における可能な範囲での可能な手法に限るべきだ。つまり、経済的な理由に対しては自己破産や生活保護による解決は実行されるべきではあるが、金銭の受給は現実的ではない。本人がどれだけ生活保護を拒んだとしても、それが生活保護などので実行できる手段があるなら、安楽死よりもそれを優先すべきであるのは、原則5に則るものだ。死亡よって保険金が下り、これを目的にすることも同様の理由で除外すべきだ。その際には安楽死においては保険金が下りないようする、経済状況の確認などを行う必要がある。安楽死において、死は最終手段でなくてはならない。何らかの原因を元として安楽死を望むのであれば、原因に対してあらゆる可能な限りの介入を行い、その他に方法が残っていないことが重要となる。
ただ一つ例外となるのは、自己の意志において死を望むこと、つまり死を解決の手段とはせず死を目的にすることである。たとえば、十分に生き、これ以上の生を望まないという理由では、これを解決できることは基本的に死しかありえない。現実的にはカウンセリングなどを十分に行い、精神疾患などを十分に除外した上で、考慮されることとなるだろう。
 
自己決定権において、年齢という枷も大きい。安楽死は老若男女に認められるべきだが、一方で現行法における意思決定は、諸説あるだろうが概ね18歳以上となるだろう。今回の実験における原則4にのっとり、システム自体には他の法律の影響はないものと考えるが、しかしこの意思決定については一体どの程度でできるものとするか、その定義は非常に難しい。現実的に、もしシステムの導入となったときに意思決定についても協議されるべきだろうが、もしここでこれについての自分の考えを述べるとそれだけでひとつの記事になる。ここでは「安楽死を許可されるのは、意思決定において十分に行えるものと判断されたもの」と仮定しておく。おそらく年齢における制約は18歳程度がだとうとなるだろう。併せて知的障害者認知症などの思考に影響を与える疾患についても除外されることとなる。
 
さて、安楽死を望みそれを叶えられる人の要件としては、
 
「意思決定を十分に行える(と判断された)」
「疾病に問わず自らの意思で安楽死を望み決定している」
精神疾患は否定される」
安楽死を望む理由に対して考えうる限りの現実的な対処が行われていてなお望む」
 
といった具合になる。そして、用件を満たし安楽死を希望する人へ医学的、精神医学的、心理学的、経済的、社会的な側面を分析し、これらについて他の方法はなく考えうる限りの介入が尽くされ、安楽死を決定、施行する、という流れとなるだろう。
 
ここまでは多少の誤差はあれど、また疾患の終末期のみを対象とするなどの制限はあるかもしれないが、おおむね安楽死において重要な点は網羅できていると思っている。実際に東海大学事件における「安楽死の4要件」は、「死期が迫っている」という点を除いて十分に満たされている(この死期が迫っているというのはちょっとおかしな話で、では耐えがたい苦痛を受け続けているが、死期は迫っていないから我慢しなさいということなのだろうか)。細かな突っ込みどころや小さな具体的な問題などもあるだろうが、それは実際のシステム導入における諸問題であり、今回の件では問題ではない。
 
実はここまでは「実際に安楽死を運用するにあたってはどういう指向性をもってシステムを構築すべきか」という前提を組み立てるだけであった。私が今回問題にしたいのはここからである。
 
さて、この問題を考え、実際に枠組みを形作ってみて、では何が問題となるだろうかな、と考えているときにある命題に私はぶち当たった。
それは次のような条件においてである。
 
「現職内閣総理大臣が、あらゆる要件をクリアし、自身の意志で死を望み安楽死システムに登録した場合、それは果たして許容されえるのだろうか」
 
これはある種の極限的な問題設定であり、極論であるが、十分に考えなくてはならない。段階を下げて、例えば会社の社長などでもよい。つまり、社会的に重要なポジションにいる彼らが安楽死を望むとき、それは許容されえるのだろうかという問題である。
この問題の肝は、やや穿った見方かもしれないが、彼らの死によって社会的な影響が強く出かねないということである。
実際問題として、自殺の報道があるとそれに触発され自殺者が増えるというのはいくつもの研究から確からしいと考えられている。そういった社会的な影響力のある人物の安楽死はセンセーショナルであるし、影響力もひとしおである。また、企業などの重要なポストにいるなら、彼らの存在の消失が企業に大きな影響を与える可能性がある。内閣総理大臣であれば政治的動揺は大きい。場合によってはそこから波及する政治経済的効果の死者が出るかもしれないし、国防という観点から見れば国家中枢が動揺している最中というのは格好の的である。
原則にあたって考えた場合、彼らが安楽死を望む場合、いずれにも該当しない。原則1のとおり、すべての人に開かれるべきである。原則2は言わずもがな。原則3は割愛。原則4として、彼らの行動を縛る法律はない。
最後のブレーキとなる原則5であるが、例えば彼らが「総理が安楽死の原因ではない」「最期まで総理としていたい」という状況の場合、これを止めることはできない。原則5が働くのはあくまで「安楽死の理由」に対してである。
「最期まで総理でいたい」というのは妙な話かもしれないが、これは詰まるところ最期の時を、”誰”として過ごすかという哲学的な問いであり、また、職業選択の自由といった別の権利の話でもある。まあ、これは少し脱線した話だろう。
とにかく、この問題における肝は、
 
・社会的影響力のある人物の安楽死は許容されるべきなのか
・どのラインを”社会的影響力”と判断するのか
 
の2点である。
 
まず、最初の点については、これは個人の権利と社会との対立に発展する。今回の安楽死問題の定義は発端を個人の自己決定権、権利に置いているため、どうしてもこの問題とは衝突する。自殺による社会への波及はある程度エビデンスがあるため、安楽死は匿名の許で行われることになるのが現実的だろう。だが、ことはそれだけではない。社長が安楽死し、立ち行かなくなり倒産、社員が自殺、というのは突拍子かもしれないが考慮されなくてはならない。そうでなくても、その人に依存的な人物(例えば全身麻痺のたった一人の家族がいる)がおり、その死によってその人も死んでしまうかもしれない、というのは十分考えうる。
結論から言えば、答えは出ない。つまるところ、これは個人主義VS全体主義の話であるため、その時その時の社会的背景などを考慮すべきだろう。人は一人で生きているのではなく、誰かと繋がっている(繋がってしまっている)ため、この観点は重要となる。
 
第2の点。どこまでを”社会的影響力”とするのか。これが私は非常に問題であると考えている。
はっきり言えば、この世の中に社会的影響力のない人間はいない。遍く人間が社会に属しているのであり、その喪失は何らかの影響を及ぼす。だが、その存在力、影響力の多寡はどうしても一人一人によって変わってくるのだ。どうしようもないことであり、例えば総理大臣とサラリーマンとでは影響力の違いは大きい。それ自体は問題ではなく、その「どこまでを安楽死を許容できる影響力」と判断するかが問題なのだ。
このシステムを作るとなれば、それは国家主導となるだろう。そして、この「安楽死を許容できる社会的影響力」のラインを決めるのも国家である。これは逆説的に、極論的に言えば「死んでも社会的影響力の少ないラインはどこか」を定めることとなる。まるで、これでは命にそれぞれ価値があり、それを国家が決め定めるようなものではないか。
私としては命がすべて平等などと語る気は毛頭ないが、それを国家が定める、あるいは特定の人物集団が定めるというのは非常に危険であり、「おまえは社会に必要だ」「おまえは社会に不必要だ」と決める行為に他ならない。そして、それを突き詰めていけば待っているのは優生思想や選民思想に他ならない。それらの危険性については、もはや語るまでもない。
 
さて、自分としては尊厳死は賛成の立場にある。けれど、上記の問題が出現したとき現実的にこの国で安楽死は本当に導入し許容されるのだろうか、と考えた際には「No」の答えとなった。
この国の法律の基本は全体主義的指向が大きい。脳死などで家族の同意が必要というのが最もよく表れている。それは裏返せば、自分一人で責任と取れない、取らせることのできない国民性、社会性の現れではないかと思う(あまり国民性とか使いたくないけど、ここでは致し方なく使います)。併せて、この社会的影響力の線引きをしてしまうのは、あまりにもこの国にとって危険である。貧困層の増えている現状の中で、さらに「無敵の人」を作ることのリスクは、余りあるものだ。
 
とまあ、色々荒唐無稽に考えてきましたが、もし本当にこの国で安楽死が導入されるなら、それは終末期患者のみに絞られ、身辺整理が終わっているなどの条件が付いたうえで、家族の納得もある、といった条件が付くんだろうなあ、と思っています。
ま、正直、臨床をやっている中で多くの患者家族が自身の死生観を醸成させていない現代日本において、安楽死の導入は夢のまた夢、と個人的には思っております。
難しい問題ですが、また折を見て考えていきたいなあと、そう思っています。
 
そして、こういう問題を、まるでお茶を飲みながら明日の天気の話をするように話し合える社会が来ることを祈っています。