「具体」と「抽象」の狭間で
この数日で花粉症が一気にひどくなりましたね。
自分も内服点眼点鼻のフルセットやっているのですが、ちょっと外出るだけで目も鼻も水まみれ。
患者さんも外来で鼻水をだばーっと出しているんや。
もう外来中、花粉まみれや。
精神科の外来なのか、花粉症外来なのか、もうわからんねこれ。
さて、復帰第一弾として、これまでにない感じの記事を書いていきます。
どんな内容かというと、自分が日々精神科やその類縁領域で考えていることのアウトプットです。
ただの思考の雑記というか、メモ書きというか。
カテゴリーとしては「もるげん考察」とまとめて、下に精神科とかいろいろとジャンル分けていこうかなと。
これも試行錯誤。今後変わるかもしれませんので。
注意:以下で自分が語ることは一個人の意見であり、特別な引用がない限り学術的な根拠は皆無です。あくまでもるげん自身が適当に思考を走らせた言葉たちであり、エビデンスではありません。
でも批評やコメントなどは参考にしたいのでばっちこいです。
あと、精神科とか精神分析の用語をバンバン使います。なるべくほかの人でもわかるように書いていますが分からなければ教えてください。また「使い方間違っているよ」というのもあれば教えていただければ幸いです。
では、今回のお題は「抽象的な言葉」についてです。
「抽象的」
辞書を引くとこんな感じに書かれていますね。
1 いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま。「本質を―にとらえる」
2 頭の中だけで考えていて、具体性に欠けるさま。「―で、わかりにくい文章」⇔具象的/具体的。
一般化したり、具体的ではないこと。そのまま具体性が反対語になりますね。
「お前の話は抽象的すぎてわからん」とか、そのまま”よくわからないもの”的なニュアンスもありますよね。
よく自分も日常生活含めて抽象的になりやすくて反省しています。
今回、なぜこのことを考えているかというと、ある出来事があったからです。
それはとある患者さんとの会話からです(創作を含んでいますが、ニュアンスは同じです)。
軽度知的発達症と診断されているその若い女性は乳癌と告知されました。そして片方の乳房を全部取らなければならなかった。
その話を聞いて私は
「お辛いですね」
と声を掛けました。若い女性が乳房を亡くしてしまうことを想像して、共感しようと思いました。
けれど、自分の予想と反し彼女はケロッとこう答えました。
「別に。むしろ痛いほうが心配です」
さて、この二つの話から自分は「具体的」ひいては「抽象的」の意味が察せられたのです。
つまり「具体的」というのは「自分の感覚・体験から近い言葉」であり「抽象的」というのは「自分の感覚・体験から遠い言葉」なのです。
「言葉」とは簡単に言えば「自身の感覚・体験の象徴」であり「世界を認識するためのツール」です。
これは認知言語学の考え、だったと思います。いかんせん最後にこの領域に触れたのが10年以上前なので間違えだったら申し訳ないです。
とにかく、言葉とは最初に自身の感覚・体験から生まれ、それが一定の輪郭をもって言葉として生成されるのです。
赤ん坊が空腹を満たしてくれるものを「おっぱい」と名付けたり、おっぱいをくれる人を「お母さん」と認識する。
そこには文字はないですが、「そういうもの」としての象徴、想像上の対象があります。このあたりは対象関係論とかに近いですね(これについてもそのうち話したい)。
成長するに従いこの言葉は音声や文字と結びつき、複雑化して「言葉・言語」と呼ばれるものになります。
つまり、最初にある言葉は感覚や体験に地続きの言葉、ある本では「体言語」と書かれていました。分かりやすいのでここではそのまま使いますね。
この「体言語」こそ、最も具体性が高い言語です。生物である以上、空腹や疼痛、感情などはその量や質に差異はあれど間違いなく備わっています。
言葉は「体言語」の具体性から始まり、様々な経験を通し、さらに思考や概念といった知的活動によって自分自身から離れ、「抽象的」となっていきます。
まさに、先ほどの話における「乳房の喪失」よりも「手術の痛み」を不安に思う。これは「喪失」の抽象性に至ることができず、より具体性の高い「痛み」は感じることができたということです。
知的発達症ではどうしても知的活動は苦手となります。そうなると抽象的な話が苦手となります。
それは自分自身から言葉が離れると、その言葉を想像できなくなってしまうからなのかもしれません。
ただ、これは単純な話ではありません。
例えば先ほどの話でも、親族のだれかで乳がんの手術をしてそれを見たことがある、などで経験していれば「喪失」の想像はできるかもしれません。
それでも経験という下敷きがなければ想像は難しいのかもしれません。
そういう意味では精神病圏では具体的な象徴しか扱えず、一方で境界圏では空想的な話が多くなるという意味で経験などの影響は大きいかもしれません。
この辺りは病態水準や対象関係論とかとも関係してくるので改めて考えたいですね。
実はこの話には一つの陥穽があります。
今回の理論をASDに当てはめようとすると、ちょっと無理が出てくるのです。
例えばASDのうちアスペルガー症候群と呼ばれた人たちはむしろ抽象的な話を好むきらいがあると思います。
ちょっとデータはないですが、個人的な臨床的な感覚はそういう感じです。この辺りも調べてみたいなあ。
もっとわかりやすい話にするなら、ASD特性を有していると感情共有がしにくい、ということです。
「叩いたら悲しいよね」とか「うるさいと迷惑でしょ」とか「お手伝いするとお母さん嬉しい」とか。
こういった感情という体言語が通じにくいのはASDの特徴です。
感覚から発せられる体言語は苦手なのに、抽象的な話は好き。
まるで矛盾しています。
ですが、これについては矛盾はありません。基本的に体言語から派生する「具体」と「抽象」の話はASDにも適応できると思います。
どのように適応するかについてですが、記事が長くなってきたので今日はこの辺で。
ヒントにしたのは「感情の軸」です。
ではまたそのうち~。