「真実の」エンターテイメント
たまには古い映画を見たっていいじゃない。
そんなわけで見ました、トゥルーマン・ショー。
あらすじ読んだらすごくおもしろそうだったので期待していたんですが、いやはや、期待以上のをぶち込まれました。
なので感想が長くなりそうです。
それぐらいに面白かったのです。
生まれたからずっと、誰かに撮られ続けている。
意志ある者は自分だけで、周りの人たちはエキストラ。
自分の未来は、自分で選んだようで、しかし誰かに選ばされている。
突き詰めていくと、この映画は自分と他者との物語。
ていうか、哲学的ゾンビのお話にもなる。
かといえば、ある種のディストピアものとして見ることもできる。
とまあ、簡単なあらすじだけでもこれだけ話を膨らませることができる。
どのモチーフも少しずつリンクしあって、トゥルーマン・ショーという大きな物語を形成する。
トルーマンの居る世界と、彼の周りを形作るエキストラと、彼らを撮影し続ける人々の織り成す物語。
それがトゥルーマン・ショー。
カメラワークもさることながら、役者の「演じる」演技もまた素晴らしい。
いきなり総括ですが、素晴らしい映画でした、トゥルーマン・ショー。
この映画は、よくある誰かが物語る映画ではなく、彼かを物語る映画。
それはノンフィクションとかの類とは違う、劇中劇じみた、語る為の映画。
一人の人間の半生を描き続け、人々に提供し続けるという狂気の沙汰を描いたのだ。ここでいう狂気の沙汰は、「こんなのマジでやれるわけねえじゃん!!!」みたいな意味もあるけど、作る側的に「一人の人生をおはようからおやすみまで作るなんてできるか!!!」みたいなところもある。
そういう意味で、この映画は「創作する人」に是非見て欲しい映画だなって思いました。こう言う風に思った映画は、あとはシンゴジラぐらいだなー。
というのも、ここではプロデューサーが撮影する側の主人公としてクローズアップされていた。彼こそまさしく「トゥルーマン・ショー」を作った人間で、彼の物語を作り上げた人物なのだ。言うなれば、この映画の脚本家、作家。
もしくは、神。
そして、父親。
ある意味でこの映画はプロデューサーを通してみたトゥルーマンの映画なんだなって。
彼は最後までトゥルーマンを愛していたし、その自由を尊重していた。
しかし、それは家父長制、パターナリズムめいた、善意の押しつけ。自由であると謳いながら、周囲の環境によって雁字搦めにして道を決めてしまう。
ふと思い至ったのが、これは自分がよく小説でやる手技だなーと。
つまり、キャラクターを作っておいて、そいつ自身は完全にフリーにするんですが、それ以外の環境は作者の意思で固めてしまう。彼がどのように動くかを予想して、必要な役回りを設置する。予想し、計算し、そして管理する。ある種のキャラクター中心に据えた、ストーリーの組み方なのだ。
だからこそ、このプロデューサーの感情には非常に共感できる。
トゥルーマンのことは誰よりも知っているし、誰よりも愛しているし、誰よりも案じている。神の手(嵐)を使いながらも、彼が再び物語の中に帰っていくことを期待する。再び、自分たちの管理下の中に入っていくことに。
だが、物語のキャラクターとは、常に自由なのだ。
時として、作者の思惑すら超えて展開していく。予想していたはずのキャラクターが、作者の意図を超えて物語を紡ぎ出していく。
作者がいたはずなのに、作者の限界すら超えてキャラクターが物語を組み上げるとき、その時、物語は誰も知らない領域へと至り、管理を抜け出し、熱量を放つ。作者すら知らないことを、観客は予想だに出来ない。
だからこそ、最後の瞬間、人々はトゥルーマンの選択に息を飲む。
誰も彼もが、彼の次の行動を求める。
プロデューサーは、彼は恐れるから外の世界には出られないという。
その通りだろう。そこは、文字通りの新世界。トゥルーマンが居た場所ではない、本当の世界。
まだ見ぬ場所への恐れとは、何にも代えがたい恐ろしさ。
しかし、恐れるがゆえに勇気を人は持てる。彼の自由を祈る女性は、「勇気を」と呟く。
その結末まではいわないが、重要なのはこの瞬間なのだ。
この瞬間こそ、トゥルーマン・ショーはかつてない熱量を放ち、誰も彼もを興奮させる。
この瞬間を見るために、この映画があるとも言える。
それは、人の自由意志へと至る過程の、最初の一歩。
トゥルーマンは箱庭に囚われていた。
その中では、あらゆるものは管理され、与えられ、望まれ満たされる。
彼にはその中に浸る自由があった。
ただ一つ、たった一人の女性との縁を切れば。その記憶を忘れて生きていけば、彼には「自由な」日々があったかもしれない。
でもそれは本当の自由なのか。
キャラクターだった彼は、あるじ女性の出会いと、日常が破れていくことによって疑問を抱いた。非現実めいた現実に、在る可能性を抱いた。
そして彼は疑い、実行した。確かめるために。答えを。現実を。
自由の意味が、そこにはある。
彼の行動こそ自由なのだ。たとえ抑圧されようと、物語が許されざると、求め続けることが自由なのだ。
なによりも、可能性を疑うことが、本当の自由だ。
ジョージ・オーエルの1984では、人々はやがて思考すら制限される。頭の中に政府への反抗心すら懐くことが許されなくなっていく。
その気になれば、何かできる。だから自由だとプロデューサーは言った。
だが、トゥルーマンにははじめ、「自分が演者である」可能性すらなかったのだ。
その状況では選ぶことすらできない。そもそも、選べるはずがない。
4択問題の、5番目の選択肢を見つけることなど出来るはずがない。
必要なのはその選択肢の存在に気付くこと。
気付き、選択するかを悩むこと。
それが自由。
トゥルーマン・ショーは人間賛歌であり、自由の歌なのだ。
そして、最後には人々はテレビから離れていく。
どんな物語にも、終わりがあるのだから。
トゥルーマンの物語が終わる瞬間、この映画も終わる。
そのキャストは、まさに「トゥルーマン・ショー」のキャストである。
さいごに、なんで日本が出てきてるのかな???
監督、日本好きなの???
なんていうおちゃめなシーンもあるのでぜひぜひどうぞ。