シンエヴァンゲリオンの感想
最近はすっかり暖かい日も増えてきました。
枝には葉が芽吹き、梅の花も紅白に色を咲かせています。
分かっているとは思いますが、これ以降はネタバレを豊富に含みます。
下手なことを言うと、それ自体がネタバレになってしまうので何も言えません。
そのせいで今回のタイトルも上記のように捻りも何もないものとなってしまいました。
それぐらいの情報量を、この映画は我々にぶつけてきたのです。
テレビシリーズから26年、多くのオタクたちが縛られてきた「エヴァの呪縛」
映画はこれを解きにかかっているのですから。
以下、ネタバレ含みます。
くれぐれも、決して、まだ見ていない人は先に進まないでください。
キーワードは
『傷を癒す』
『リフレイン、あるいは再演』
『ブレンパワード』
そして
『膀胱に気をつけろ』
です。
はじめに
ご存じの通り、庵野監督率いる旧ガイナックス、現カラーが作る「新世紀エヴァンゲリオン」はその独特な設定、少年VS世界という構図、無口系ヒロインの登場、そして「おめでとう」エンドという今なお連綿と連なる巨大なインパクトを残した作品です。
自分は放映当初見ていなかったのですが、20代になってTV版をすべて見て、こりゃ大人がはまる訳だ、と納得したのを覚えてます。
特に庵野監督が得意とする、えげつない程の超精密な設定と画像描写は、SFだの特撮だのが好きな人間にはぶっ刺さりまくりです。
一方で、エヴァンゲリオン内で繰り広げられるあまりにリアリスティックな人間像とその関係は生々しく、ゆえに多くの人を魅了します。
TV版から26年。終わらない終わり方で漫画版、劇場版、そして新劇場版へと引き継がれたエヴァンゲリオン・サーガはここに一つの終わりを迎えようとしていたのです。
さて、未視聴の方への予防線をここまでひっぱって、いよいよシンエヴァへの感想へと切り込んでいきます。
まだ見てない人は本当にここでブラウザバックしてください。
ほんと、堪忍してください。
感想全般
具体的なストーリーには触れず、まずはアニメーションなどについて。
エンドロールのアニメーション会社たちを見れば、そりゃ納得の完成度。
さらにはあのアニメ版アイドルマスターの監督を取った錦織さんが1スタッフでしかないというのだから、アニメーションについては何を文句を言うことがありましょうや。
そもそも、精密なモノを大量に出すのが好きな庵野監督とCGの組み合わせが合わないわけがない。
しかし、状況を考えて、また今までのアニメーションから考えても、あれはわざと浮かしていますね。
マイナス宇宙を認識できないゆえに記憶などで疑似シミュレートしているのなら、まるで“シミュレーター”のような絵柄になってもおかしくないです。
あれはそういう演出かなあと考えてます。
音楽についても鷺巣さんによる、迫力ある音楽を堪能できます。
ところどころ懐かしい音楽だったり、前回の「ヴンダー発進」についても同じくパロディーも聞かせているのがいい味を出しています。
さて、いよいよシナリオ、ストーリー面です。
今回は最後のエヴァンゲリオンになる訳なので、否応にどう終わらせるか、どうこの風呂敷を畳むか。
これが最大の問題になっていました。
多くの人が、あの庵野が畳めるのかと疑念視したことでしょう。
そして、見事に裏切られました。
丁寧に、これ以上なく、完璧なまでの終わり方を見せたのです。
Qで傷付いたシンジを、アスカやミサトたちの葛藤を、マリの存在意義を、ゲンドウの野望を、その全てを包括してまとめてみせたのです。
これには思わず手を握り、心の中で島本和彦をインストール、
「俺より面白いものを作るな庵野!!!」
と叫びましたね。
いやあ、とにかくすごい。
満員の映画館の中で、早く一人になってじっくりと耽りたいと思ったのは久々でしたね。
終わらないエヴァと終わらせる苦悩
自分も同人作家の端くれ。一人の創作者です。
物語を作る際に一番苦しいところは何処かと言われれば
「全部」
と答えます。
もし、「一つに絞れ」と言われたら
「はじめと山場と終わり」
と答えるでしょう。
絞り切れないのは、創作にはそれだけの苦悩と苦痛が宿り、時として精神すら蝕むからです。
今までエヴァンゲリオンはこの「終わり」が決定的に欠けていました。
無論、TV版も旧劇場版も、一応の終わりを迎えてました。
ですが、どちらも終わり方としてはしっくりくるわけでもなく、その意味を見た者に委ねる形でした。
個人的には、これは「終わっている」とは言い難いです。
無論、結末がはっきりしないタイプのエンディングも世の中にはあります。
暗に匂わせるだけで終わるものもあります。
しかしながら、物語として終わるには、きっちりと作者が鑑賞者に終わりを提供する必要があります。
物語とは、「何かを得る、あるいは失う」ことがその根幹にあるのです。
その型で「浦島型」「もも太郎型」「シンデレラ型」などと分類できます。
物語の中で、主人公が何かを得たり失ったりしないといけない。
そして、これ以上はもう何も変化しないぞ、と読者に伝えるのが「エンディング」なのです。
0年代などからはこのアンチテーゼとして「終わらない作品群」が出現したりもしました。
それも一つの在り方ですが、個人的には物語の王道は「終わらせる」ことにあります。
エヴァが終わらないことを許容されたのは、その新規性と「終わらない物語」との親和性だとは思います。
その親和性とは、直接終わらせないことのメリットにつながります。
物語が終わらない時、どんなメリットがあるか。
一つは解釈の受け取り側への譲渡です。
物語る側が確たる結末を明示しないから、それを見た人が好き勝手に想像できるというものです。
エヴァはストーリーの中でも様々なワードが飛び出しながらも碌に解説もされない、まさに解釈厨、考察厨が大好きな物語です。
本編だけでもいろいろ考えられるのに、終わり方を提示しないことでさらに想像も膨らむというもの。
この点でエヴァは優れていますし、まさにこの点が真新しかったのでしょう。
物語としての清算を行わないことの第2の利点は、その先も物語が続いているという「現実性」を与えることができます。
ちゃんとしたエンディングを迎えない以上、我々の中でシンジたちやエヴァンゲリオンという物語自体が終了しません。
我々が年を経る中でも変わることなく、しかしながら今なお計算し続ける古いCPUのように稼働し続けているのです。
まさにこれは「呪い」なのです。
現実と物語は、物語そのものが終わることで区別されるはずなのに、終わらないことで「まだ見ていたい」という欲望と融合し、奇妙奇天烈なキメラとなって我々の心にいつまでも巣食っているのです。
このようなメリットがあったからこそ、エヴァは終わらないことで逆に存在感を増していたのではないかと思います。
まるで作者が死んでしまい、決して続きが読めない物語の如く、呪いめいて私たちの心に侵食するのです。
注釈:漫画版は、自分はまだ最終巻だけ読めてないので評するのを控えますが、あれは完全な庵野監督の物ではないのでノーカウントとします。
ですが、TV、旧劇場、そして新劇場版と進む中、物語は終わることなく展開だけを見せていきます。
九龍城が如く、いまだに死に切れず歪な臓器移植をされる肉体のような様相を見せます。
風呂敷だけを広げるだけ広げ、これを畳むことの難しさは想像を絶します。
ましてや、ここまで生きていた物語を終わらせることは筆舌に尽くしがたいのです。
本編だけでなく様々なコンテクストを孕んだ巨大な生命体の終焉なのです。
その終焉を、逆説的にここまで広げなければ終わらせられなかったような終わり方で魅せるのが本当に上手なのです。
TVアニメ版を基幹とし
旧劇での一先ずの終焉を先に見せ
漫画版でのあり得たもう一つの解釈の存在を描き
新劇による新たな介入が、物語を終わらせるためのキーとなる。
TV、旧劇の終われなさ、後味の悪さこそが、この新劇場版、シンエヴァとして終わらせることのできるカギだったのだと分かるのです。
リフレイン、あるいは再演
シンエヴァンゲリオンのタイトルには、最後に:||みたいな記号があります。
どうやら、楽譜で「リピート」を示す記号ということです。
これを知ったとき、まさにと思いました。
今回のエヴァは恐らく数多の「リフレイン」、かつての作品群を彷彿とさせる演出が多かったと思います。
特に旧劇からの「巨大綾波」が現代ナイズされて蘇ったときは思わず笑いそうになりましたし、北上ミドリの「超変じゃん!!」は多くの人の心に刺さったことでしょう。
ですが、逆にこのツッコミが我々の感情と同期するには旧劇を見ている必要があるのです。
エヴァ世界はリピートしているが、この作品でリピートは終わる。
そんな意味が込められていると思います。
これは傷を癒す物語である
細かいところを話始めたら止まらなくなる(マリの存在意義、とか)ので一度話題の転換をします。
エヴァンゲリオンそのもののテーマ、についてです。
エヴァの物語を貫く文脈は、「家族」と「相互理解」です。
碇シンジを通し、「父との確執」を描き、「周囲との絆」を育む。
そもそも、父から置いていかれ、親にほとんど触れあうことなく生きていたシンジにとって、それはまさに「傷」そのものなのです。
傷だらけのシンジを迎え入れたのは、これまた傷だらけの大人、子供たちなのです。
その中でシンジは自身の傷と何とか距離を取りながら、自分なりに進んでいこうとしていく。
結果得られたものは、TV、旧劇、そして「Q」までは散々たる結果でした。
傷が傷を生み、さらにシンジを傷つける。
ゼルエル戦以降、そこで立ち直ったはずのシンジは再び状況に翻弄され、傷は癒せずにいる。
加えて、周りにいる大人たちは自分の傷を癒せていないどころか化膿させた人たちばかりです。
そんな人たちが、果たしてシンジを気遣えるのか。
この辺りも新劇では、シンジの傷を再演しているように見えます。
今までと違うのは、第3村での級友たちとの交流。
ここでシンジは再び「相互理解の喜び」を思い出すのです。
そっくりさんを通して、再び自分自身を見つめなおし、歩き始める準備をする。
何よりも、それをじっと支えてくれる大人たちの存在。
ただ放置するのではない。
そっと見守り、立ち上がるのを待つ。
自分で決めろ、とも背負わせることでもない。
そこにいることを認め、守ること。
それを、「寄り添う」というのです。
シンジに必要だったのは、ただ彼を労り寄り添ってくれる大人たちというのを、このシーンは秘めています。
ちなみに、ゼルエル戦と同様の現象がここでも起きています。
このシーンでも、シンジは別のところでもいいのに彼はエヴァのゲージで一人きりになるのを選ぶのです。
何もしたくない、けれど救われることを望む、矛盾に満ちた現象がここで再演されているのです。
ゲージで一人で座る彼を見たとき、自分はこの映画の方向性が、明るいものなのだなあと確信しました。
さらに言えば、ゲージにいるということはエヴァの面影を、母の面影を頼っているのかもしれない。
退行のような、心理的防衛なのかもしれません。
人は傷付きながら生きていく。
その傷を、癒し、膿み、再び傷付け、労り、あるいはそのままに生きていく。
子供がモラトリアムと呼ばれる大人になる猶予の間にアイデンティティを得るために、必要なのは傷との向き合いです。
いつか再びまた傷ついたときの為に、自分自身と決着をつけなければならないのです。
シンジやアスカがその傷を抱えているのは、まだ子供だからよいのです。
問題は大人たち。ゲンドウやミサトたちがその傷と向き合い、克服するのには時間がかかった。
少なくとも、ミサトは14年の歳月が必要だった。
シンエヴァでシンジたちが救われるには、この年月が必要だったのです。
大人のキスではなく、温かな抱擁をシンジに与えられるのは、この月日が必要だったのです。
ミサトがシンジに寄り添えるためにはそれだけの時間が必要だったのです。
エヴァは傷付いた人たちの物語です。
今まではシンジを含めて多くの人たちの傷をそのままに、終わらせることなく物語を紡いできました。
シンエヴァは、シンジが自身の傷と向き合い、落とし前をつけるために立ち上がったからこそ終わることができたのです。
痛みを知らぬ人は優しくできない。
痛みを知っているからこそ、他人を思いやり、想像することができる。
だからこそ、相互理解の喜びを噛み締めることができる。
「家族」を、家族という縁を超えて立ち向かえる。
ただ父への報復ではなく、父を「一人の人間」として、シンジは父親の座から引き摺り下ろすことができた。
父という偉大な存在ではなく、等身大の人間としての相互理解によってこの物語は幕を閉じることができた。
この時、碇シンジは少年の時代を終え、声変りを経て、大人へと変わったのです。
シンエヴァンゲリオン、このテーマを語るならば、それは
「父殺し」
となるでしょう。
既視感と正体
話はやや変わります。
シンエヴァを見終わたとき、なんか妙な既視感を覚えました。
シンエヴァは正しく未曽有の映画ですが、心のどこかで見たことがあるぞと語り掛けてくるのです。
帰り道の中でいったい何かなぁと考えていたらある人物に思い当たりました。
その名は、富野由悠季
言わずとしてた伝説的なアニメ監督。「ガンダムシリーズ」の生みの親です。
自分も初代ガンダムをはじめ、いくつかの作品を見ています。
この日本で、彼の作品に触れなかった人は少ないのではないでしょうか。
そんな有名な監督ですが、何故冨野監督のことを思い出したのか。
実はこの二人、共に「うつ」を患っているのです。
自分はZなどは見ているのですが、すごいダークというわけではないのです。が、そこから伝わるテーマの虚無性などは筆舌に尽くしがたいです。ガンダム自体も、決して明るいテーマではありません。
一方で、うつ後に生み出された3作品は「白冨野3部作」と呼ばれる(かどうかは不明)ですが、あまり沈鬱過ぎない雰囲気とテーマ性を持っています。
このうち、「ブレンパワード」は特に強い前向きなテーマ性を持っています。
個人的にも非常に好きで、自分のアニメのオールタイムイズベスト5にはいつもランクインします。
さて、このブレンパワードは冨野節全開のオーガニックな台詞回しや省エネ作画などが話題になったりもします。
しかしながら、この作品の裏に込められた徹底してエネルギッシュで前向きなテーマは、いつ見ても胸を打ちます。
ブレンパワードのキャッチコピーは
「頼まれなくたって生きてやる」
という、今までの冨野監督から考えるとちょっと考えられないようなテーマ性なのです。
もののけ姫のキャッチコピーが「生きろ」だったので、これに対抗したという話があります。
いずれにしろ、ブレンパワードでは「家族」と「絆」、そして「命」をテーマにして扱い、ほぼ同時期にこれらの作品がこの世に生み出されたのです。
シンエヴァでは全編にわたる力強い、そして何より周囲の人たちへの感謝を感じられます。
今まで無気力な閉塞感の中で孤独に生きるシンジに、急に眼が開いたかのような人々の絆の糸を、シンエヴァでは描いています。
さようなら、と謳い、けれどシンジは生きることを止めない。
どこか、私にはこの2作品に強い絆があるとしか考えられません。
あるいは、うつから救われたから、その傷を知るからこそ、光を知ることができたのかもしれません。
そして、その再演が、今目の前で起きたのでしょうか。
最後に
まさに、庵野監督の魂そのもの、それを感じ取ることができます。
30年培ってきた巨大な命が死に、その瞬きに輝くが如くの光芒をこの作品は放つのです。
最後に、膀胱の衰えを私も感じました。
映画前にはトイレに行こう。
そんなテーマもありそうですね。