もるげん3分前

もるげんれえてとそのサークル「Horizont」のスペース。宣伝の他に呼んだ本や映画の感想、最近のこととかを書いていきます。pixiv→http://www.pixiv.net/member.php?id=270447、ツイッター→https://twitter.com/morghenrate

言峰綺礼にみる「欲望」

時機を逸した(逸しすぎた)話題ではあるのだが、ふた月ほど前にショタのラブドールを購入したレポ漫画が、物議を醸したのを覚えているだろうか。
「そんなこともあったなあ」くらいの過ぎ去ったネット話題の一つだ。
その中で自分も簡単にではあるが、下記のようなツイートで言及している。
 
 
内容は読んでいただければわかるが、つまるところ「まずはその欲そのものについて見ること」であり、「それ自体は罪でも病でもない」と言いたいのであった。
先日、このことを考えていながら、最近ふと、あるキャラクターが頭から離れなくなった。
Fate/stay nightに出てくる、言峰綺礼という人物だ。
 
……「またFateかよ」と思われた方々、ちょっと待ってほしい。
私はFateが大好きなのである。
だからこのブログの多くがFate関連になってしまうのもやむを得ない事情なのだ。
「誰だそいつ?」となった方にはぜひ、アニメ「Fate/Zero」を視聴していただき、彼の葛藤と苦悩を余すことなく感じていただきたいのだ。そのあとで「Fate/stay night UBW」を見るのも楽しいだろうし、現在公開中の「Fate/stay night Heaven's Feel」をご覧になっていただければ、より言峰綺礼のことを理解できるだろう。
みんなも沼に落ちよう!
 
話を戻すけれど、欲望というものは馬鹿にはできない。我々は文明人ではあるが、常に欲望を抱え、時には開放し、またある時は抑圧して生活している。
欲望は身近にあり続け、けれどもある種の「禁忌」の如く在る。
 
今回はそんな欲望について、言峰綺礼を通して考えていきます。
 
 

言峰綺礼という男

言峰綺礼は父、璃正の一人息子として生まれた。
言峰一族は聖堂教会(Fateの世界におけるキリスト教)の信徒であり、綺礼もまた生まれたときから信仰の道を歩み続けていた。特に綺礼は熱心な信徒である父の影響もあり、イタリアの神学校を卒業したり、幾度も聖地巡礼を行った。その中で彼は妻をめとり、子を為しもした。
一方で、綺礼は常に空虚感を抱き続けていた。人の語る美しさを美しいとは思えず、善行に喜びを見出せなかった。苛烈な修行に身を投じ、自傷ともいえる信仰を費やしたが、それが綺礼を埋めることはなかった。結婚しても幸せを感じられなかった綺礼に、妻は「あなたは人を愛せる」ことを証明するために、教義に反して自殺をした。
だが、綺礼が得たのは「自分で殺すことができなかった」という後悔だけだったのだ。以後、彼は自分を捧げるに足る目的を探すために求道したが、ついぞ虚無を埋めるものはなかった。
第4次聖杯戦争に参加した綺礼は、空虚さと無意味さに悩みながらも、ついに己の本質に気づく。
すなわち、「善なるものに喜びを見出せず、悪を愛し、苦痛に喜びを見出す」という破綻した本質であった。
以降、彼は自分自身の本質を自覚し、時には悪辣ともいえる手段で人を不幸に落とし(例えば、自身の父親を殺した凶器を『父からの遺言』と称して手渡す、など)、愉悦を満たすことを覚えたのだった。
そんな破綻者である彼は、信仰者としては本物であり神への愛、祈りは他の信徒をして超えるものでもあった。
やがて彼は己のような破綻者がこの世に生まれる理由を求め、また自身の欲を満たすために第五次聖杯戦争の裏で暗躍することとなる。
 
言峰綺礼を語る言葉としてよく使われるのが「悪党ではないが悪人、非道ではないが外道」というフレーズだ。
確かに彼は人の不幸や苦痛に喜びを見出す破綻者である。一方で聖職者としての彼は紛れもなく本物であり、道徳を信じ善に生きようとしていた。
綺礼は悪にしか喜びを感じられない。悪の中でしか自分を感じられない。けれども人としての正しさ、善性を識るからこそ、言峰綺礼は懊悩し、その姿に多くの人が引き寄せられているのである。
 

欲望というものについて

さて、話を言峰綺礼から今日のブログテーマである「欲望」へと変えてみる。
欲望とは三大欲求などと言われるように、生物が原始的に、生理的に持っている「何かを叶えたいと思う心の動き」であると分かる。
生物学的に考えるのであれば生命が生存、自己保存のために必要な最小限の機能を強化する心理的作用という風に言えるだろう。「食べたい」「SEXしたい」と深いところから湧き出る欲望が、その生命の行動を操作し生物種として繁栄しようとさせる動きだ。この辺りについては大なり小なりの差異はあれど、おおむね了解できると思う。
また、仏教における欲の解釈、マズローの「欲求階層論」などに代表されるように、単純に「生命としての原則」に従う以外の欲求というものも認められる。承認欲求やらがそれにあたるわけだ。ただ生きる上では必要ない(と思われる)が、人間が社会的な動物となり複雑な関係性を構築したことによって、原始的な欲求以外の複雑な欲求も発生させられている。欲求の種別や階層については色んな考え方があるので、「ただ原始的なものだけでもなく色んなものがある」くらいに考えておきたい。欲望にも多様性があるのだ。
 
自分は精神科医なので、ちょっと精神科分野における欲望の話をすれば、決して外せないのがジークムント・フロイト(Sigmund Freud)だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう。精神科において、彼は精神分析療法と呼ばれる精神療法の創始者として名を残しており、精神発達において大きな影響を与える考えを確立した人物である。
細かいところを話せば難しくなるが、フロイトが治療対象としていたヒステリーや神経症は、無意識における葛藤が原因だと提唱したのだ。葛藤とは、欲望とそれを制する精神的機構の衝突である。欲望を叶えたいと思っても為し得られないために、その行き場を失ったエネルギーがヒステリーなどの症状を来す、と考えたのだ。ちなみにフロイトはこれを妙に性欲と結び付けたがるのである。
ふと思い返せば、我々も欲望が叶えられないと分かったときにストレスを感じる。多くの欲望を抱くが、叶えられることより叶えられないことのほうが多いのではないかと思うほどだ。叶えられない時、人は欲望を叶えるために努力したり、あるいはすっかり諦めたりする。あるいは別のこと、運動や美術に打ち込んで代償したりする。だが、上手く代償できずに攻撃的になったり、前述のヒステリーなどの神経症を患うこともあるのだ。
精神疾患は欲望から成る、と言いたいわけではなく、欲望によって人は精神疾患にも成り得る、と言ったほうが良いだろう。
欲望というものは、それだけの強いエネルギーを持っている。エネルギッシュな人は強い欲望を持っていることは少なくないだろう。逆に虚弱な人の中には、無欲というような人もいると感じる。強い欲は時に精神すら食いつぶし、弱い欲は生命力を薄弱にもする。
人が生きるには、少なからず欲というものは必要なのだ。それは前述のような生物学的に必要であったり、あるいは精神的なエネルギーとして欠かせないのだ。
 
これは私見だが、我々が何かをするときの理由を分析すると、「~したい(want:欲望)」「~すべきだ(should:内的な義務)」「~しなくてはならない(must:外的な義務)」に分けられる。分け方については別の機会に考えてみたいが、少なくとも「~したい」と「~すべきだ/~しなくてはならない」の二つに分けること自体、そこまで難しい考えではないだろう。この考え自体も前述の欲望と抑制の機構に基づくところがある。ただ欲望に従ってだけ生きていけるものではない。我々は時に、欲望を抑えつけて生きていかねばならない時もある。故に我々が行動を起こす時、行動の内側には欲望かそれを制するものか、いずれかの理由が存在する。
 
生きることには欲望が付きまとっている。形や量、質に差はあるけれど、私たちは皆、欲望と共に生きているのだ。
問題は、欲望をどのように知り、どのように向き合い、抑圧するのか受け入れるのか、解き放つのかということだ。
 

綺礼の苦悩はすべての人が抱く悩み

ここでようやく、どうして自分が件のツイートから言峰綺礼という男を連想したのかを語ることができる。
言峰綺礼の「欲望」は悪を愛し不幸に至福を感じるという、ある種の倒錯した欲望なのだ。綺礼が自らの欲望を満たそうとするなら、どうしてもそこには不幸にならざるを得ない人が現れる。彼の愛には必ず、誰かの傷が必要になるのだ。言峰綺礼が内に抱える欲望は、決して表に出してはならない種類のモノなのである。
小児性愛というものも同じように現時点では他人を気付つけるしかない欲望である。真の意味で子供と愛を育めるのか、子供の愛の自由意思はないのか、という疑問は保留させていただくが、この欲望(性愛であるが、広い意味で欲望である)は社会道義に反することについては、多くの文明国では異論ないだろう。子供を性的に愛する行為をすること自体が子供にとって物理的にも加虐的である。
この種の欲望というのは枚挙に暇がない。殺人や加害、サディズムなどもそうであるし、強姦などもそれだ。そも、性欲という欲望自体が、同じ種族内の別の個体を対象にしてしまう性質上、ある種の攻撃性を秘めてしまう。食欲についても他種の生命を殺害し肉を食わねばならないという側面があるからこそ、我々の中には攻撃性を保証するための欲望が備わっているのかもしれない。
この論でいえば、人類種というものそれ自体が欲望を持つ時点で他者への加害性を内包している、悪しき生き物のように見えてきてしまう。
では、欲望を抱いているからこそ人は悪なのかといえば、それは否である。
欲望は抱いていても、現実に影響を与えなければ現行のどの法律でも人は裁かれない。法律でなくても、その欲望を発露しない限り、他者には欲望は決して見えない。見えない欲望を他人はどのように断じれるのであろうか。
逆を言えば、欲望に従って犯した罪は償い罰されなければならない。行動による被害が起きてこそ、初めて欲望は悪と断じられる。
第4次聖杯戦争言峰綺礼は内に欲望を秘めた状態だった。正確に言えば、己の欲望に気付くことなく、あるいは目を背けていた。その間の彼は苦悩はしたが、彼の行いに罪はなかった。
一方で、己の本質を知った綺礼は欲望のままに惨劇を繰り返し、多くの人間を不幸に陥れた。この時の彼は、間違いなく悪である。欲望がもし断罪されるなら、それは欲望そのものによってではなく、欲望によって生まれた結果によってである。
 
人は、欲望によって苦しむときは二つある。一つは、その欲望があまりにも反社会的、非倫理的であるが故に満たし得ず、しかし渇望に心が軋むこと。もう一つは、己の欲望を知らず、しかし満たされぬ空虚さに煩悶とすること。このいずれも、第四次聖杯戦争の時の綺礼の姿だ。
最初のころ、彼は信仰の道に生き、しかし決して満たされない心を抱いて生きていた。この心を満たしうる確かなものが欲しいと、修行のみならず、酒の蒐集などにも手を出した。欲望を知らずに満たされぬということは、想像を絶する苦痛な人生だろう。なぜなら、人は己の努力の結果を予想し、得られる報酬が心を、欲望を満たすと知っているから苦痛にも耐えられる。けれど、決して満たされないのであれば、あらゆる努力をそれこそ血の滲む様に行い続ける。その様はまるで自傷行為さながらである。もしくは、決して満たされないと知ってしまうから全ての努力を諦め、無為無力に生きるだけの屍に成り果てるしかないのだ。
妻の死をきっかけに綺礼は己の本質に勘付くが、これを見まいと必死に目を背けた。それもそうだ。ずっと探してきたものが、ずっと信じてきたものを裏切るもの、信仰の道と反するからだ。だから、見まい見まいと眼を瞑るしかなく、他のものがあるはずだと信じるしかないのだ。この苦しみは容易に想像できるだろう。こうすれば満たされると知っていながら、それができないという苦しみは馴染み深い。「食べたいけれど食べられない」「寝たいけど眠れない」「セックスしたいけどできない」といった苦しみを経験しない人はいないだろう。言峰綺礼の場合、それが人格の奥深くに形成されてしまっているから、そして自分の字性そのものを大きく変える欲望だからこそ壮絶な苦しみとなるのだ。
 
だが、一度欲望を受け入れ、そして解き放った彼は清々しく生き生きとしている。欲望を満たす快楽を知った綺礼はその残りの人生を、自身の欲望を満たすためだけに使い続けた。まるで、それが人生の全てであるかの如く、だ。
人は大なり小なり欲望を満たすために生きている。「長生きしたい」「子を為したい」「金を得たい」「美味いものを食べたい」という欲望に限りなく、生きているうちはどうしても生まれてくる。逆説的に、欲望があるからこそ生きられ、欲望が満たされるからこそ生の充足を得ることができる。
とあるインタビューで原作者が綺礼が欲望に従って行動し続けることについて「そうすることでしか世界と繋がれない」と述べていた。世界と繋がるには、自らが満ちていなければならない。空虚なままではその軽さのために世界から吹き飛ばされてしまう。欲望を満たし、心が充足して初めて人は、世界に向き合うことができる。世界に向き合うとは、自分がここにいると感じ、その自分を取り巻いて他人が、大気が、大地が、光があると知ることだ。
何故、欲望を満たさねば自分を感じられないか。ひとつの答えとして、このFateの主人公である衛宮士郎を最後に見ていきたい。
 

士郎の「生きたい」という言葉

衛宮士郎はある大災害を生き残ったただ一人の少年だ。そのためにサバイバルギルト(自分だけが生き残ってしまったという罪悪感)を抱き、「誰かのために生きねばならない」と強迫的に生きていた。
ある人をして、士郎の生き方は「ロボット」のようだと言わしめられる。人は自己の欲望のために生きるのだから、自分に欲望がなく、他人のためだけに生きるなんてことは人間ではない、という意味だ。そんな彼は、何かを楽しいと感じることができない。彼の喜びは、不幸な誰かを救うことで初めて達成される、ある種これも倒錯した欲望なのだ(ただ、士郎の場合は欲望というより義務感である)。
Heaven's Feelではヒロインである桜を通して、彼がその生き方を捨てて、一人の人間になる物語でもある。士郎は物語の最後、渾身の力で「生きたい」と叫んだ。
人は生まれたとき、誰しもがただ「生きたい」という欲望を抱く。抱いて生まれてくるのだ。
この欲望によって人は生きてゆき、満たされようと苦しみもがいていく。己の命を大切に思い、喪いたくないと恐怖する。
そして、生きたいという欲望を満たし始めることで、人は人生を始めていく。他者と触れ合い、傷つき、解り合いながら成長していく。時に満たされ、時に渇望しながら生きていくのだ。
欲望を満たす過程にこそ、人は他者との交わりを得る。欲望の結果ではなく、過程によって人と人とが交わる。人だけではなく、この世界とも交わっていく。
士郎の「生きたい」という言葉には、ただその欲を言葉にした以上の重みがある。彼が初めて、自分の中に生まれた欲望を認め、満たしたいと思ったことは、ある種の誕生であると言えるだろう。
綺礼は欲望を満たし得なかったから苦悩し、きっとある種の疎外感の中で生きていた。だが、欲望を知り、満たすことで彼は世界との繋がりを得た。第4次聖杯戦争の最後、仇敵に敗北した綺礼は「殺すな」と命乞いをする。それは、欲望を知る前の綺礼であれば決して為し得なかった行いだろう。自分の本質を知った彼は、同時に「生きたい」という欲を得ていたのだ。
 

終わりに

つらつらと「欲望」というものについて語ってみたが、別段何か結論があるわけではない。ただ、今自分の考える欲望を言峰綺礼というキャラクターを通して考え直してみたいなと、そう思っただけだ。
前述のとおり、言峰綺礼は欲望に苦しみ、欲望に喜び、欲望に生きた人間だ。その姿があまりにも抜きん出ているから突飛に見えるかもしれないが、彼の苦悩は全て、私たちの近くにある。
欲望たただ悪なのではなく、ただ善なのでもない。生きるためには必要であり、大切なのは欲望の形を知ることだと、そう思っている。